国家の大義
世界が絶賛したこの国のかたち
前野 徹・著  講談社+α新書

 明暗を分けた思慮の深さ

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、戦国の三大武将は、その性格、手法などをよく比較されます。あの「ほととぎす」を題材にして、3人の性格の違いを表した歌はあまりにも有名です。迫りくる西欧の脅威に対する対応についても、3人は対照的でした。
 信長は、天下統一のためには、貪欲になんでも取り入れた。キリスト教の布教がどのような結果を将来招くかという前に、「鳴くほととぎす」だからいいとし、「鳴かないほととぎす」である比叡山は焼き討ちにしました。現世主義、功利主義です。しかし、それがために、信長の世は長く続きませんでした。
 秀吉は「鳴かぬなら鳴かせてみせよう」と約15万の大軍を二度にわたって派遣し、朝鮮出兵をしました。しかし、そこには過信がありました。秀吉は己の力を過大評価して、情勢を見誤り、理想実現の半途にして倒れました。
 徳川幕府が鎖国を決したのは、家康が没して後のことではあります。しかし、大権現の意向が反映されていたと仮定すれば、家康は通商による利益は二の次にして、海外への門戸を制限し、侵略の手先であるキリスト教の流入を防ぎ、じっと耐えたということになるでしょう。「鳴かぬなら鳴くまで待とう」の精神で。
 鎖国によって日本の近代化が遅れたと指摘する歴史学者は少なくありません。しかし、仮に鎖国をしていなかったとしたらどうでしょうか。日本は西欧のアジア植民地化の波に、たちまち呑み込まれていたのではないでしょうか。
 信長には「天下を平定して、平和を取り戻す」という時代の大義しかなかった。日本に根付いている宗教を排し、キリスト教を優遇することがどのような結末につながるか、十分な思慮が足りませんでした。秀吉は事を急ぎ過ぎました。通商による利益も捨てきれず、力で大義をまっとうしようとしたのです。
 対して徳川幕府は、経済的なメリットは犠牲にしても、キリスト教の流入を防ぎました。国の経済的発展という大義よりももっと重要な、「国家の防衛」という大義を選択した――。徳川時代が260年の長きにわたって続いたのも納得がいきます。
 
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