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6 開けっ放しでも安全 戦前から戦時中にかけて、大阪と鹿児島で暮らしたことのある母は、幼い私への寝物語に、日本生活の想い出話をよくしてくれた。そのなかに、日本の家には大門がないから誰でもなかに入れてしまう、たいていの家には塀はなくて木が植えられているだけ、戸はいつも開けっ放しで、出かけるにも戸締まりをしない、あちこちの庭に柿の木があるけれど実を盗る者は一人もいない、物がなくなったという話は聞いたこともない、日本には泥棒がいないのね、というのがあった。 小さな田舎の村のことではなく、商店街もある町なかの家々でそうなのだというので、とても信じられない思いがしたのを覚えている。子ども心に、安全で平和なおとぎ話のような生活世界がイメージされた。 母の話とほとんどそっくりの見聞を、明治15〜20年(1882〜87)頃の西洋人の日本紀行のなかに見つけた。27歳で初来日したアメリカの女性紀行作家シドモアの、奈良を訪れたときに宿泊した住宅地内の民家に触れた文章である。 「私たちの泊まっている小さな家の仕切の薄っぺらさは、濠に囲まれた無意味な城壁や城門と同様、盗人を誘惑しているように見えましたが、この理想郷には泥棒はいません。住居は広く雨戸を開け、何時間もそのままです。少なくとも好奇心で手に触れる光景は無数にありますが、それで不安になったり、物が紛失したりしたことはありません。どの部屋の襖にも鍵をかける設備はなく、どんな盗賊に対しても雨戸を頑丈に作ることはしませんし、またそんな防犯の必要性も感じません。これは国民性を考える上で大きな参考となります」 江戸時代となればいっそうのこと、人々の生活はまさしく開けっ放し、丸見え状態そのものだったようである。安政6〜文久2年(1859〜62)に日本を訪れたイギリス初代公使オールコックは、静岡県熱海に滞在した折に、その開放的な庶民生活の様子を詳しく書きとめている。 「すべての店の表は開けっ放しになっていて、なかが見え、うしろにはかならず小さな庭があり、それに、家人たちは座ったまま働いたり、遊んだり、手でどんな仕事をしているかということ――朝食・昼寝・そのあとの行水・女の仕事・はだかの子供たちの遊戯・男の商取り引きや手細工――などがなんでも見える」 簡単に書いているけれども、日常生活のすべてが表からそっくりそのまま見えるというのはすごいことだと思う。その当時、外国人が日本人の生活を知るのは、あまりにもたやすいことだったのである。フランス海軍の士官、24歳のデンマーク人スエンソンも、慶応2年(1866)の江戸府内での、熱海と何ら変わりのない開けっ放し生活の見聞を記している。 「日本人の家庭生活はほとんどいつでも戸を開け広げたままで展開される。寒さのために家中閉め切らざるを得ないときは除いて、戸も窓も、風通しをよくするために全開される。通りすがりの者が好奇心の目を向けようとも、それをさえぎるものは何一つない。日常生活の細部にいたるまで観察の対象にならないものはなく、というよりむしろ、日本人は何ひとつ隠そうとせず、自前の天真爛漫さでもって、欧米人ならできるだけ人の目を避けようとする行為でさえ、他人の目にさらしてはばからない」 彼ら西洋人たちが見聞した「他人の目にさらしてはばからない光景」には、片肌を脱いでお化粧する女性の姿があれば、庭に丸裸になりタライで行水をする女性の姿もあった。みな驚きの目をもって記しているが、見ていて目が合っても平気な顔をしている、注視している自分が恥ずかしくなった、と書く西洋人もいた。 これだけ開放的な生活が営まれていたということは、近隣の人々の間にどれだけ親和な信頼関係があったかを物語っている。また、心から安心できる生活があり、安全で平和な社会が形づくられていたことを物語っている。シドモアが「理想郷」といったのも、そうした生活形態が西洋社会では理想として頭に描くしかあり得ないものだったからで、けっして誇張だというわけにはいかない。 こうした開けっ放し生活を見れば、韓国人でも中国人でも驚いたと思うが、酉洋人がことのほか驚愕したのは、彼らにはプライバシーという考え、つまり、誰も他人の私生活を干渉してはならないという考えが強くあったからだった。そのため彼らは、最初のうちは目のやり場のない戸惑いを覚え、遠慮がちに眺めていたようだった。それがしだいに慣れていくにしたがって、遠慮はいらぬとわかり、気を楽にしての観察に努めたようである。 なかには、いくらなんでも遠慮がなさすぎると思える西洋人もいた。大森貝塚の発見で知られるアメリカの動物学者モースもその一人である。彼はまるで自分も近隣の日本人の一人であるかのように、親しく日本人と接した。彼は日本人の開放性を、家ばかりではなく、その精神の開放性を心から信じ切っていたといえた。だから、次のような行動にも及んだのだと思う。 「私は夜の燈明がついている神棚をスケッチするため、一軒の家へさまよい入って、その家の婦人が熟睡し、また乳をのませつつあった赤坊も熟睡しているのを見た。私は日本の家が入り込もうとする無遠慮者にとっては、文字通りあけっぱなしである事の例として、この場面を写生せざるを得なかった」 彼の著書には、そのときに描いた母子の寝姿のスケッチが収録されている。明治10年代のことである。これほどのプライバシーの侵害はないだろう。西洋人であるならば、ちょっとそこまではできないと思うのだが、彼は平気でやってのけている。なぜだったのか。モースは日本に来てから、どうやらとてつもなく大きな価値転換をさせられたようなのである。プライバシーという考え方は何故にあるのか、日本には何故にプライバシーという考えがないのか、そのことに深く思い至ったのだと思う。彼は次のように書いている。 「レインをはじめ文筆家たちは、日本の住居にはプライバシーが欠けている、と述べている。しかし、彼らは、プライバシーは野蛮で不作法な人々の間でのみ必要なことを忘れている。日本人は、こういった野蛮な人々の非常に少ない国民であり、これに対し、いわゆる文明化された民族、とりわけイギリス人やアメリカ人の社会の大半は、このような野蛮な人々の集まりなのである」 この文章には、「文明と野蛮」という対比で示される、西洋や中国に発達した考え方に対する根本的な批判が込められている。「プライバシーは野蛮で不作法な人々の間でのみ必要なこと」とは、まさしく真理ではないか。文明化されて開放的ではなく閉鎖的となり、近隣の人々の間の親和な信頼関係をなくし、まことに危険で闘争的となった社会がプライバシーなる考えを必要とした――モースはそういいたかったに違いない |
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