なぜ世界の人々は
「日本の心」に惹かれるのか
 
呉善花・著 PHP研究所
 

14 生き方の美学

 日本の文化的な伝統は、自然に生じる情緒的な心の動きをとても大事にするところに大きな特徴がある。これを最初に指摘したのは、おそらく江戸時代の国学者・本居宣長だろう。
 宣長は、江戸時代のモラリスト知識人代表ともいえる儒教学者たちが、「『源氏物語』はことさらに不道徳な男女の色恋や不倫関係を描くばかりで、何も大事なことをいっていない。きわめて退廃的である」といった評価をしていたことに対してこういっている。
「物語は、ただ人の情のありのままを書き記して、読む人に人の情とはこういうものだ、ということを知らす(表現する)のである。これは『もののあわれ』を知らす(表現する)、ということである」
 ここで宣長がいっているのは、善悪の倫理やモラルで物語を読んではいけない、物語は哀れさ、切なさ、楽しさ、愛らしさ、憎らしさなど、内面に生じる心の動きを、つまり「もののあわれ」を最も大切なところとして読まないといけない――そういうことである。「もののあわれ」とは、「その時々の物事や事物や他者との出会いのなかで、自然に心の内に生じてくる感動」である。この「もののあわれ」を知ることが、人間にとっては道徳を知ることよりも大事なのだと宣長はいったのだ。日本の文化的伝統の本質はここにあると、はっきり示したものといってよいだろう。
 中国や韓国の文化的伝統では、内面の心の動きではなく、外面の善悪の倫理・道徳を修得することが最も大事なことである。物語でもその大部分が、不倫などはいうに及ばず、善が栄えて悪が亡びるという道徳観に貫かれたもので、韓国伝統の物語はほとんどがこれである。こうした道徳第一主義は、いやがうえにも人間の内面の心の動きを封じ込めてしまう。そうして偽善が生じることになる。
 この道徳第一主義が偽善を生じるという点が最も明確に現れている文化は、中国社会の実状がいまだ明らかでないため、残念ながらアジアでは韓国だというほかないようだ。韓国(及び北朝鮮)は伝統的にも現在的にも、道徳観・倫理観の高さこそ、人間として最も誇るべき立派なものとされ、日頃からやかましく道徳律の遵守がいわれ続けてきた国である。
 ところが、である。諸国の犯罪件数のトップはどこでも窃盗なのだが、韓国だけはトップが詐欺という世界でも珍しい国なのである。また韓国は横領と贈収賄の発生率でも、世界のトップクラスにある。それに対して日本の発生率は、どれも世界的にきわめて低いレベルにある(韓国の発生率は2000年に詐欺で日本の7・4倍、横領で24倍、贈収賄で27・6倍)。また日本では偽証罪は年に数件しかないが、韓国では実に1,000件を超えるという凄まじさだ(2000年で日本5件、韓国1198件)。
 もちろん犯罪そのものが倫理・道徳に反するわけだが、詐欺・横領・贈収賄・偽証は、モラルに深くかかわっている犯罪である。これが善悪の倫理やモラルよりも内面の心の動きを大切とする日本では少なく、その逆に善悪の倫理やモラルを第一に重んじる韓国に圧倒的に多いのである。韓国の新聞が、自国の犯罪事情を報道するときにしばしば自嘲ぎみに掲げる見出しのように、韓国はまさしく「嘘つき(偽善)大国」の名にふさわしいというしかないのが実状である。これはいったい、どう考えたらよいのだろうか。
 日本社会はしばしば「恥の文化」ともいわれるように、そんなことをしたら世間の笑い者になるという、外側からの圧力によって善悪の倫理やモラルが保たれているとの説がある。しかしそうではない。そんなことをいえば、韓国のほうがいっそう社会的な外圧は強く、日本よりよっぽど「恥の文化」ということになる。日本社会に「恥の文化」と見える側面のあることは否定しないが、それは日本に特有なものではなく、西洋的な個人主義社会とは異なる東洋的な共同主義社会に共通して見られるものというべきだろう。
 それでは、日本では何か善悪の基準になっているのだろうか。私はそれを美意識だといっている。日本人の行動基準は、何が善で何が悪かという道徳律に発するものではない。日本人の行動を律しているのは、何をするのが美しいか、何をするのが醜いかであり、総じて「どう生きる(死ぬ)のが美しいか」という美意識である。これによって姿勢・態度の「かっこよさ」から生活の倫理までが形づくられている――それが日本人である。こうした倫理のあり方は、私の知る限りでは、日本人以外には見られないものである。
 ある人の生き方に触れたときに、心の内に「ああ、美しいな」という感動が自然に湧き起こってくるときがある。人間どうしの信頼関係は、道徳や規則を介してではなく、この内なる美的な感動体験の共有を通して生まれていくものではないのか。実際に、道徳に違反しなければ正しく生きていることになり、善であることになるかというと、必ずしもそうはならない。違反とはいえないが醜いというしかない行為はあるし、違反になるかもしれないが美しいというべき行為があるからだ。道徳に枠づけられた人間観よりも、ずっと大きく広く深い人間観が、「どう生きる(死ぬ)のが美しいか」という美意識にはあり、「もののあわれ」を知る心にはある。
 ビジネスの世界でも政治の世界でも、道徳や法律に違反しなければ何をやってもいいわけではない。どのようにビジネスをしているのか、どのように政治をしているのか、それが美しい行為といえるものなのかどうか、日本では伝統的にそこが最も問われてきたはずである。そのため日本には、通常の法律や道徳よりも、人間的にはいっそう厳しい倫理観が根付いてきたといってよい。だからこそ日本は、今なお世界有数の犯罪発生率の低い国としてあり続けているのではないか。
 日本の犯罪発生率はこの数年、全般的に低下の傾向にあるが、なかで例外的に大増加をみているのが、平成12年(2000)から平成16年(2004)で倍近く増えている「知能犯罪」である。それでも韓国や他の先進諸国よりはずっと少ないのだが、近年の「知能犯罪」の増加は「オレオレ詐欺」や「振り込め詐欺」など、新手詐欺の組織的な拡大によるもののようである。この現象はとても日本的なことだと思う。
 現在流行中の新手詐欺の特徴は、相手に面と向かって行なう詐欺ではなく、お互いに顔の見えない状態のなかで、電話・封書・インターネットなどを利用するところにある。日本人の美意識からすれば、きわめて卑怯で醜い部類に属する犯罪に違いないけれど、罪を犯すほうからすれば「醜い姿をさらさずにできる犯罪」ということになる。
 日本人の犯罪に対する最大の弱点は、人に騙されやすいことである。私にいわせれば、日本人ほど善人でお人好しだらけの国民はいない。相手を疑うことをよしとせず、しきりにいい人だと見ようとする。これも美意識からきているものだ。また犯罪者のほうとしても、面と向かって人を騙すことは、美意識からしてなかなかできず、それで詐欺の発生率が低いものとなっているのではないかと想像する。でも新手詐欺では自分の姿を見せず、相手の姿も見ずに行なうことができる。しかも社会には騙されやすい人たちが満ち満ちている。新手詐欺の増加は、情報化社会に特有の「主体の見えない犯罪」が、日本社会に特有の「お人好し世界」のなかで、水を得た魚のように威力を発揮している姿にほかならない。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]