なぜ世界の人々は
「日本の心」に惹かれるのか
 
呉善花・著 PHP研究所
 

27 すべてを水に流す

 日本は地震大国である。と同時に火山大国であり台風大国であり豪雪大国である。こうした面だけを見ると、日本はいかにも厳しい自然にさらされた自然災害大国で住みにくい国のようになるが、もちろんそうではない。全般的にはきわめて温暖な気候に恵まれた、世界でも有数の住みやすい国である。
 日本はそうした突発的な厳しさと季節的な穏やかさの両面を抱えもつ自然環境下にあるのだが、一般に日本の精神的・文化的な性格は、温帯性海洋国家としての「温和で開放的な性格」の面から論じられることが多い。これに対して和辻哲郎は、日本を温和性で一般化することなく、台風大国的・豪雪大国的な「突発性」に重点をおくとらえ方をしている。
 和辻は、日本はアジア地域に共通なモンスーン的風土(夏季の著しい高温多湿で特徴づけられる)に位置しているけれども、さらに日本では「熱帯的でありながら寒帯的でもある」、また「季節的でありながら突発的でもある」という特殊な二重性格が加わっているという。つまり日本には、一方では「季節的でありながらその猛烈さにおいて世界に比類なき突発的な台風」が訪れ、一方では「積雪量において世界にまれな大雪」が訪れるのである。
 和辻は、これほど顕著にこの二重性格(熱帯的・寒帯的)を現すものは、「日本の風土を除いて世界のどこにも見いだされない」という。そしてこの二重性格を、穏やかに季節がめぐる温帯的な性格よりもいっそう重要な日本的風土の特徴だと述べている。
 モンスーン的風土の地域では、冬季には大陸から海洋に、夏季には海洋から大陸に向かって吹くモンスーン(季節風)によって、夏は著しい高温多湿となり、冬は低温少湿で乾燥した乾季となる。そこでは、夏季のすさまじいまでの高温多湿の時期を、じっと我慢して過ごすしかない。そのためモンスーン的風土は、地域の人々の精神的な性格を「受容的・忍従的」(外からやってくる猛威を受け入れて我慢しながら従う)なものにしていると和辻はいう。東南アジアやインド一帯に特徴的である。
 一方、中国大陸のモンスーン的風土は、砂漠的風土(乾燥とそれに対する反抗)と結びついている。したがってその精神性は、執拗に反抗を保持し続けながらの我慢で従う性格(非服従的忍従性)で特徴づけられるとして、これを「モンスーン的風土のシナ型」と呼んでいる。韓国も明らかにこのタイプといってよいと思う。
 それに対して日本は、台風的・豪雪的な性格をもった特殊形態である。したがってその反抗は執拗なものではなく、反抗が一気に忍従に転じる「思い切りのよさ」「あきらめのよさ」「いさぎよさ」といった我慢の性格(突発的忍従性)で特徴づけられるという。これが「モンスーン的風土の日本型」である。
 和辻が取り上げた日本の「猛威をふるう自然」は、台風(大雨・洪水)と豪雪であったが、さらには地震、津波、火山噴火、山火事などを加えてみれば、いっそう日本的な自然の突発的な厳しさの面が浮かび上がってくるだろう。
 たしかに日本の自然は、季節的な「優しい自然」と突発的な「猛威をふるう自然」の両面をもっている。こうした日本の風土的な性格と、温和な性格でありながら、いざとなると厳しいまでにきっぱりと物事のけじめをつけ、いさぎよくあきらめる、思い切るといった日本人に特徴的な性格とはけっして無縁ではないだろう。
 いさぎよさというのは、ある意味では、日本人の精神性の最大の特徴ではないかと思う。この精神性が、さまざまないきさつのすべてを水に流し、すっきりとした気持ちでゼロからの再出発をはかることを可能としているのだ。焦土と化した国土からのめざましい戦後の復興がそうであったように。
 戦争をはじめとするあらゆる人為的な諍(いさか)いも、その関係がいったん終わってしまえば、ああ、あれは天災だったと考えて、いさぎよく水に流そうとする。日本人はそうなのではないかと思う。
 日本では古代から、地震や火山噴火などの大きな天災が起きたときには、特別に手厚く神仏を祀る国家的な宗教儀式が執り行なわれた。年号を改める改元もしばしば行なわれた。
 また、必ずといってよいほど、恩赦・大赦や特定の罪の赦免が行なわれた。被災者ばかりではなく、一般の貧窮者・老齢者への施行(食糧や医療や看護の施し)が行なわれた。さらには、徳政令(土地や金銭にかかわる一切の債権・債務の破棄命令)が発せられることもあった。
 罪の赦免、施行、徳政令、いずれもその功徳によって仏果を得ようとするもの、という見方がある。もちろんそうではあるのだが、そこにはさらに改元と同じく「新しい世のはじまり」「世界の再出発」の思想があった。「新しい世のはじまり」は、「それまでの世の終わり」によってもたらされる。そのためには、これまでの世を終わらせ、新たな世を生み出していかなくてはならない。
 そこで、為政者は罪の赦免や徳政によってこれまでの世の終わり(帳消し)を実行し、施行によって新たな世を生み出していこうとした(生命力を活性化させていこうとした)のである。一口にいえば、すべてを水に流して世の再生をはかったのである。
 
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