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2 日本人だけがなぜ、これほど純情でウブか | ||
古代大中華帝国にとって日本は君子の国 『旧唐書倭人傳』に曰く、 「倭人の入朝する者、多く自ら誇り大なり」と。 『旧唐書』とは『史記』に始まる「中国二四正史」の中の一巻。唐王朝が滅亡後、唐の歴史書として編纂された。 唐に入国する倭人(日本国人のこと)の多くは「自ら誇り大なり」とこの正史は記述した。これは不思議なことだ。 『続日本記』巻三、慶雲3年7月。 粟田真人が文武天皇の大宝3年(西暦703年)に遣唐使として唐の長安に赴き、則天武后(唐の高宗妃)に謁見したとき、その粟田真人を唐人が評して次のように記した。 「しばしば聞く、海東に大倭国あり、之を君子国という。人民豊楽にして禮儀敦厚なりと。今使人を見るに儀容大浄、あに誤りなからんや」と……。 東方海上に大倭国あり、そしてこの国は君子の国であるとしばしば聞く。君子の国であるのみならず、人民は豊かであり、くらしを楽しんでいる。しかも、礼儀に厚い、とも。今、話に聞く東海大倭の国から使臣が来た。この使人の様子を見ると、その通りであった。その立居振舞いと容姿容貌は堂々としていて礼儀正しく、そして威張りくさっているわけでもなく、すがすがしく、毅然としていた。 これらの日本への評価は、全世界人類文明の“中華”帝国の評価としては最高級の賛辞であろう。大宝3年というこの時期は、日本・百済連合軍が唐の水軍に白村江で大敗戦(西暦663年、天智天皇2年癸亥)を喫した40年あとのことなのだ。つまり日本が大唐世界帝国の重圧をまともに受けて、今にも完全な属領にされてしまうかもしれなかった、そんな時代状況下なのである。 歴史に記録される世界史は、四大文明から始まる。最古のチグリス・ユーフラテスのシュメール文明、次にナイル河のエジプト文明、やや遅れてインダス・ガンジス河のインド、そして黄河・揚子江の中国、と。 漢から唐にかけて、中国は世界最古最強の文明帝国として自他ともに許した。ところが、東方海上に浮かぶ野蛮人の国と見なされた倭人たちの、この臆することなき堂々たる態度、それは一体、どこから生まれるのか。 『漢書倭人傳』に曰く。 「東方を夷という。天性柔順にして、おさむるに道を以てす」 漢の准南子の著『地形訓』化曰く。 「東方に君子国あり、衣冠に劔を帯ぶ。その人となり譲を好みて争わず」 『後漢書東夷傳』に曰く。 「仁にして生を好む。天性柔順にして、治むるに道を以てす。君子不死の国なり」 『魏志倭人傳』に曰く。 「盗竊(とうせつ)を好まず訴訟すくなし」 「他人に逢うと手を搏(う)って相手を拝んだ。また目上の人には、跪いて拝をした」 「その寿を考うるに、或は百年、或は八、九十年になるものも多し」 前漢はBC202年からAD8年まで。後漢はAD25年から220年まで。この400年間の日本を、考古学者は「弥生(土器)時代」と称している。文字で書かれた歴史は残されていない。 後漢が滅びたあと、有名な『三国志』(魏、蜀、呉)の時代となる。魏はAD220年から264年とごく短い。これも概ね、いわゆる弥生時代に含まれる。 「東方に君子国あり」という。漢朝は孔孟の儒教をもって国教となす。そして「君子」とは儒教における理想的人間像とされる。それゆえこの時代の日本を「君子の国」と正史に記述することは、日本に対する“中華”世界帝国の側からの最大級の評価のことばであろう。 |
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