自分の品格
渡部昇一・著 三笠書房 

 この「恥」を知って人は「強い人」に

 ところが、彼らは日本人に対してだけは、全然態度が違っていた。
 なぜイギリスは日本に対してだけは態度を違えたのか。一つにはまず、文久2年、1862年に起こった生麦事件が原因している。
 この事件は、神奈川の近くの生麦村(現横浜市鶴見区)で、薩摩の島津久光の行列へ暴走した馬に乗って突っ込んできたイギリス人を、従士が無礼討ちした事件である。このときイギリスは、イギリス人を殺傷してしまったことに対する賠償金を、当然のこととして幕府と薩摩藩に要求した。幕府はイギリスの圧力におびえて賠償金を支払い、残りは当事者の薩摩藩からということになったのだが、上意討ちは武士の習いと薩摩はイギリスの要求をつっぱねてしまったのである。
 イギリスは、多少威嚇すれば簡単に賠償金は取れるとふんで、その翌年6月薩摩本国へ艦隊を送って結局薩英戦争になってしまうのだが、薩摩藩は意外に強くて思惑どおりにはいかない。とうとうイギリス艦隊の艦長が戦死してしまい、イギリス艦隊は錨を切って逃げて行くという事態にまでなった。
 錨を切るということは、欧米の海軍では敗走と同じくひどく不名誉なことである。日本はまだそのようなことを知らなかったから、戦後イギリス艦隊が返してくれと言ってきたので、その錨を快く返したということなのだが、とにかくイギリスとしては、日本はその他の東洋とはちょっと違うぞという手応えを実感として持ったのである。
 生麦事件や薩英戦争だけではない。その後、続々とイギリス人たちを感服させるようなことを日本はやってのけるのである。
 日清戦争の勝利ももちろんそうなのだが、一番驚かせたのは、清末に中国の華北に起こった北清事変のときではないかと思う。
 北清事変とは、最近の歴史の教科書では義和団事件とも呼ばれているが、1900年北京を中心に起こった反キリスト教をかざした反乱のことである。その後、清国政府もこの反乱に荷担したため、実質上は北京にある外交の出先機関をすべて打ちこわし、外国人を皆殺しにしようという戦争に発展した。当時北京には、イギリスはもちろん、日本も含めて八力国ぐらいの国が入っていたから、攻め落とされれば確実に殺される。そのため連合軍を組織して戦うことになるのだが、指揮官はイギリス人だった。このとき、軍規厳正で一番よく戦ったのが柴五郎の指揮する日本軍だったという。しかも日本人は、厳しい戦況の中でも落ち込んで暗くならず、常に朗らかで士気も旺盛だったということで、この指揮官に多大なる感銘を与えているのである。
 結局、反乱は鎮圧され、連合軍は北京を占領するのだが、乱後の規律についても日本軍は断然よかった。規律に優れると言われ、当時世界で一番裕福だと言われていたあのイギリスの軍隊ですら略奪行為をしていたのに、日本軍はそんなことはほとんどやっていない。それを見ていたシナ人は、日本人の支配区なら大丈夫だということで、日本の旗を立てるようにまでなったというのである。
 イギリスは当時、何と言っても世界に冠たる国だったから、いろいろな国のありさまを観察できる立場にあった。だから、他の国々と比較しても日本はちょっと違うぞ、という実感を持った。こうして、イギリスは、この国とならば対等の条約を結んでも大丈夫だし、ロシアの備えになり得ると考えたのである。
 こうして日英同盟という、当時の世界を驚愕させるような対等な軍事条約が成立したのだ。
 これはある意味では大変なことだった。というのも、それまで四百年間にわたって続けられてきた、白人による世界のアパルトヘイト化、つまり、白人が主人で有色人種は奴隷あるいは召し使いという構図が、ガラリと崩れたことを意味するからだ。
 そしてその後の日露戦争においても、そのことが実証された。日本軍の観戦武官になったハミルトンという将軍なども、日本軍の規律のよさに、ほとほと感服しているのである。こうして日本軍が世界から一目置かれたがために、乃木希典大将も東郷平八郎元帥も外国から最高の尊敬を集めることになったのだ。
 それもこれも、日本人として恥ずかしいことはしないという意識が、日本人の中に強くあったからではないだろうか。国の恥になることはやらないという意識が、日本人は他の後進国に比べて桁違いに強かった。皆が皆そうだったとは言わないが、その意識は先進国並みかあるいはそれ以上だったのである。
 
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