恐怖心を乗り越える

 小さな子供は、罪のないほんの小さなうそをついたために、サタンの館に連れ去られてしまうのではないかと恐怖におびえながら、ベッドカバーの下に隠れる。これは、実に哀れな誤解だ。もちろん子供にものごとの善悪を教える必要はある。だが恐怖心を起こさせるようなやり方は、健全な指導法とは言えない。
 地獄へ落ちるための条件は、歴史とともに変わる。時代によって、金曜日に肉を食べる、帽子をかぶらずに教会へいく、(理由がなんであれ)離婚する、などという条件が、地獄へと向かう切符となってきた。
 社会の道徳感が変わるにしたがって、その条件も変わってきた。
 私のクライアントのひとりなどは、安息日に飛行機に乗るのが罪悪だと考えている。だが実は、そうすると彼の母親がとても怒るからなのだ。
 私は、彼の母親や信仰に対して、礼を失するようなことをするつもりはなかった。だから、自分の信仰体系に逆らうようなことをするのは、何にしてもよくないと言った。結局私たちはみな、自分自身の考えで生きていかなければならないのだから。
 だが彼のことは気の毒だと思った。彼は混乱しており、自分が何を信念としているのか、実際はわからずにいたのだ。彼は幼いころから、罪深いとされるものごとを教え込まれていて、そのためにいま苦しみながら生きるはめになってしまった。実のところ彼は、教化に対する反発心を抱いていたのだ。それでも、自身の信仰体系を甘受せざるをえなかった。彼にとって何の意味もなさないような規則に疑問を差し挟むというのが、彼の魂を発展させるための試練のひとつだったのだ。ただし彼の場合も、恐怖心を動機にすることだけはしてはいけない。そういう動機は、憂鬱や怒りを引き起こす可能性があるのだ。
 宗教は、個人の選択に任されている。だが啓発のために特定の宗教に所属する必要はない。神の力は、私たち一人ひとりの心の中に潜んでいるのであり、金曜日に飛行機に乗ったからと言って、あるいは帽子をかぶらずに教会にいったからと言って、地獄に落とされるようなことはないのだ。
 魂は、その運命を遂げやすいように、カルマ的な理由によって特定宗教の信者として生まれ変わる。私たちには、自分の信条を他人に押しつける権利はないし、正式な宗教的訓練を受けることも、償いのために必要だというわけでもない。善良で、人の役に立つ立派な人生を歩むというのが、大きな目標なのだ――これは、組織化された宗教に属していようがいまいが、同じように達成することのできる目標だ。
 霊界では、宗教による偏見や迫害は存在しない。そういった態度は、物質界だけのものだ。もっとも偉大な崇拝とは、ありとあらゆる生命に敬意を払い、高潔に生きることだ。そういう生き方をすることで、私たちみんなの心の中に潜む神に敬意を払うのだ。
 私たち人間は、自分の行動によって自らをやっかいな状況に引きずり込んでいる。恐怖に満ちた生活もまた、私たち人間がこの世に自らつくり上げた地獄のひとつだ。愛と理解があれば、そんな心理状態から解放される。
 地獄に永遠に落とされるという恐怖感、あるいは似たような抽象的な脅しから解放されれば、自分の真の信念というものを発見し、わけのわからない教義をやみくもに信奉することもなくなるはずだ。そうなれば、やがては自身の絶対的な善良さを発見できるようになり、さらに豊かで、満たされた人生を歩んでいけるようになる。

 邪悪さ

 邪悪な人間は、確かに存在する。恐ろしいことだが、事実だ。だがその邪悪さにも、程度というものがある。邪悪な行為を犯しながら、自責の念にさいなまれずにいるというのが、いちばん忌まわしい。
 邪悪さは一種の病気だと思っている人が多い。極悪非道な人間の過去を心理学的に分析してみると、幼年時代の精神的外傷とか虐待などといった要素が浮かび上がってくるという。不幸なことだが、だからと言って邪悪な態度が許されるというわけではない。他人に非道な行いをすれば、現世、あるいは来世でその報いは必ず本人に戻ってくる。
 残忍、あるいは思いやりに欠けた行いは、単に意地の悪さから出た場合もあり、それが必ずしも邪悪だとは言えないかもしれない。だが激しい悪意をもって他人を傷つけるような行動に出れば、それはもう邪悪な世界に一歩足を踏み出したということだ。
 邪悪さに打ち勝つもっとも有効は方法は、愛を喚起することである。

 刺激を求める心

 刺激への欲求は、邪悪さを引き起こしかねない。
 悪癖に染まりきった状態で他界した場合、物質的な刺激を求めようと思ったら、物質界の人間に憑依するしか手がない。肉体を所有しない魂にとって、望みを満たすためにはだれかの肉体にとりつかなければならないのだ。相伴にあずかるためには、自分のお望みの物質にふけっている人間のオーラ内に入る必要がある。だから反対に、何かの物質に溺れ、すきを見せない限り、だれもとりつかれることはないのだ。

 泥酔者への憑依

 ある晩、友人たちと一緒にナイトクラブにいたときのことだが、私たちのとなりにすわっていた男性がかなりの量の酒をあおっていた。彼のほうに目を向けると、その上を邪悪な霊がうろついているのが見えた。その影(幽霊のような姿かたちのもの)は、彼の頭のすぐ上まできていた。その人は、相変わらずつぎつぎと酒を注文しては、すぐさま飲み干していた。やがて彼の態度が荒れてきた。
 私は高次の存在を呼び出し、霊的保護を求めて、心の中で祈りを捧げた。だがその陰鬱な霊は、自分のお楽しみにすぐにでも手が届くところにいたのだ。
 その人にもう飲むのはやめたほうがいいと言おうとした瞬間、その霊が彼の中に入っていった。そうなるともう手遅れだし、口を差し挟むのは危険だ。私にできるのは、その男性を家に送り返してくれる人間をさがすことだけだった。友人たちに、この場を離れなければ、と言った。私の動揺ぶりが彼らにも伝わったようで、みんなすぐ帰る準備をしてくれた。私はボーイ長に、その紳士は飲みすぎているから家に送り返してあげたほうがいいと告げておいた。ボーイ長はその客とは顔見知りで、家に送り届ける車をすぐに用意してくれた。そして、私たちはその店を出た。あの紳士にとりついた悪のバイブレーションと格闘するなど、まっぴらごめんだった。まず第一に、彼は私のことを知らないのだから、私か何を言おうが耳を傾けてもらえるとは思えない。それに、彼のからだに入っていったあの霊が、私の口出しに対して黙ってはいないはずだ。あのときあの男性を説き伏せようとしても、おそらく無駄な努力に終わったことだろう。酔いがさめたときなら、説き伏せることもできるかもしれないが。
 彼が家に送られていったと知って、私は安心した。あの霊も、彼が飲むのをやめればすぐさま離れていくはずだ。
 この場合、とりつかれたあの男性が邪悪な人間だというわけではない。彼は不幸なだけだ。酒に溺れてしまったがために、彼の肉体をとおして酒を飲もうとしていた霊を受け入れやすいすきをつくってしまったのだ。あの霊は、同じナイトクラブ内をうろつきながら、飲みすぎの人間が現れるのを待ち受けていた。おそらく、この世でそのナイトクラブに足しげく通っていたのだろう。だから、霊となっても戻ってきたのだ。彼にとって、アルコールの刺激を感じるための唯一の方法は、アルコールに溺れている人間のアストラル体にとりつくことだったのだ。
 このナイトクラブでの一件は、気が滅入るものではあるが決してめずらしいことではない。そこは、とても感じのよいクラブで、むさ苦しさなどまったく感じさせない場所だ。あの霊は、アルコールに浸りきっていたために、物質界をクリアして心穏やかに休むということができずにいたのだ。この世に生きているあいだに悪癖を乗り越えられなかったその霊は、アルコールに対する途方もない欲求を抱え込んでいた。この悲劇的な悪癖は、あまりにも強い欲望を生み出すので、死と言えどもその束縛を解き放つことができない。時間と、霊界のカウンセラーの助力だけが、この世をさまよう欲求に終止符を打つことができる。その霊は、その悪癖に染まったまま生まれ変わらなければならない。そうすることで、物質界でそれを乗り越えるチャンスを再び与えられるのだ。
 こういった憑依現象は、悪癖に極端に染まっている場合だけに限られる。もちろん、この世を去った物質依存症の人間全員が、この世に縛りつけられたままになるというわけではない。霊界に到着すると、ほとんどの人が、自分の強い欲望は肉体という殻とともにこの世に置いてきたということに気づくはずだ。
 どんな悪癖にせよ、それは物質界にいるあいだに乗り越えるよう自分に課せられた試練だということを理解するのが大切だ。そうしなければ、解消されるまでのあいだずっとその問題を持って生まれ変わることになる。悪癖からは、悪いカルマが生まれていく。自分をコントロールできずにいると、他人を傷つけてしまうこともめずらしくない。悪癖を乗り越えさえすれば、すぐにでもよいカルマが新たにつくり出されるのだ。
 ローレンスが、つぎのように説明してくれた。「人間は、自身の善良さによって守られているんだ。だからすきさえ見せなければ、邪悪な霊に近づかれることもない。
 霊的保護を取り除くようなものは何でも、そのすきを生み出すもとになる。飲みすぎ、ドラッグ、怒り、嫉妬心、バランスを欠いた欲望など、例をあげればきりがないが、そういった事柄が、悪い霊を受け入れられるすきをつくり、人を危険にさらす。それに、人間は悪い霊から逃げ出すこともできない。なにしろ、そういう悪い霊の存在には、まったく気がついていないんだから」
 これは、人を偏執狂に陥れようという警告ではない――注意を呼び覚ますものだ。私たち人間は、外部の力にコントロールされないよう、自らをコントロールしなければならない。
 悪癖というのは、必ずしも邪悪な態度だとは言えないし、地獄に落とされるようなものでもない。ただ、魂の望む物質が存在するこの世界にあまりにも執着していると、霊界への移行が困難になる場合があるのだ。
 同じように、自身の欲求をコントロールできなかったために――あるいは邪悪な霊にすきを見せたために――とりつかれたからといって、罰せられることはない。ただ、人生がひどく不快なものになるだけだ。
 ひどく否定的な衝動――これは、食前のカクテルや健康的な性生活、そして時おりの喫煙などとは別――を抑制し、現世での生活をバランスよく保っていれば、物質界でも霊界でもさらに価値ある時間を過ごせるはずだ。
 繰り返すようだが、この世と霊界のあいだを隔てるベールは、非情に薄い。だから物質界への執着を断ち切れない霊は、その辺にうろつき回っている。ほとんどの人の目には見えないが、そういった霊はすぐ近くにいるものだ。そういう歓迎されざる力から身を守るためには、精神を強く持つことがいちばんだ。
 邪悪な力は、善良なる力を打ち破ることはできない。
 「真実の愛が、私たちの恐怖心をはねつける」

 神秘の力

 心霊力におもしろ半分に手を出すのは危険であるということを、きちんと理解しておいてほしい。心霊力には、それなりの教育を受けていない人間を狂気の世界へと引きずりこむ神秘の力があるのだ。
 こっくりさん、自動書記、タロットカード、マントラの呪文などの心霊術は、身を滅ぼしかねない。目に見えない神秘の力をもて遊ぶと、精神障害が引き起こされることがあるのだ。前述したような心霊術は、未発達の霊、あるいは悪霊を呼び出す道具になりえる。そういった霊魂たちは、この世のすぐ近くに住みついており、心霊術をもて遊ぶ人間のオーラにとりつくこともあるのだ。
 この世と霊界のあいだで交信が行われるということは、ほんとうだ。賢い人間なら、その事実を受け入れはするものの、それに振り回されることはない。超自然的な術に耽溺するということはつまり、物質的な人生にうまく対処することができないということで、ひとつの危険な現実逃避である。
 そういった危険に気づかずにいると、自分の身を守れなくなってしまう。
 
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