第五章 自殺の与える影響

 自殺は、当人にとっても、残された人間にとっても、悲惨なものだ。それは、耐えられないほどの精神的苦痛、あるいは絶望感から引き起こされることが多い。苦悩から逃げ出すためには自殺するしかないと考える人たちがいるのだ。だが残された遺族は、深い悲しみを感じるとともに、罪の意識にさいなまれる――そして、不自然なかたちで人生が断ち切られたことにショックをおぼえるのだ。
 新聞には、苦しみに終止符を打とうと自殺を選んだ、さまざまな人々の話があふれている。世の中には、自殺の方法を詳細に記したベストセラー本まで出回っているのだ。悲しいことに、この現象は大人の世界に限られたものではない。現在では、恐ろしいほどの数のティーンエージャーたちまでが、自らの命を断っている。まるで、自殺など日常茶飯事のことで、人生の試練に対処するための新たな方法として認められていると言わんばかりだ。
 だが、自殺は断じて認められない。それは、魂に対する憤怒の行為なのだ。物質界の人生を断ち切った人間は、生きることもなく、死ぬこともない。その人の本来の死期(自殺しなかった場合に、その肉体が死ぬはずだった時期)が訪れるまでのあいだ、魂はこの世と霊界のあいだに挟まれて暮らすことになる。この状態――死とも、生とも言えない状態――で存在するというのは、実に恐ろしいことだ。
 結局、人生を終わらせたところで、苦しみから逃れるわけではない。自分を殺すというのは不可能だ。なにしろ、だれも死んだりはしないのだから。死ぬわけではなく、かたちを変えるだけだ。将来生まれ変わったとき、前世で自分を自殺へ追い込んだのと同じ問題が、また生じてくることになる。来世で繰り返さなければならないのなら、現世でその問題に立ち向かったほうが賢明だ。
 肉体は、神聖な預かりものだ。予定よりも早く人生を終わらせる権利など、だれにもない。悲劇ではあるが、自殺は同時に卑劣な行為でもある。だれだって、肉体的あるいは精神的な苦痛、憂鬱、絶望、不治の病、破産などといったものに苦しみたくはない。多くの人々が、苦しいとき、あるいは生活の質が一変したとき、自らの命を断つ権利があるはずだと考えている。だが現世を終わらせたからと言って、どんな苦しみからも逃れられはしないのだ。この点は、声を大にして言いたい。

 ステラの場合

 私の知り合いが、重い病気にかかり、からだの痛みにひどく苦しめられていた。理性を失った彼女は、致死量の鎮静剤をのみ込んでしまった。娘がすぐに発見したおかげで、彼女は息を吹き返すことができた。そして意識を失っていたとき彼女がいきついた場所について、私に教えてくれた。
 「とても暗い場所だったわ。ほとんど真っ暗闇だった。自分が大変なことをしでかしてしまったんだとわかってくると、恐ろしくてたまらなかった。とにかく自分のからだに戻りたかったわ。なんだか、リンボにいるみたいな感じで、この世でもなければあの世でもなかった。娘が泣き叫ぶ声が聞こえるんだけど、どうしてもあの子のいるところへ戻れないの。前にも、後ろにも進めないような感じだった。私、祈ったわ。神様に、どうぞからだに戻してくださいって懇願したの。薬をのみ込んだとき、私は自分のしていることがわかっていなかったんですって言いながら。想像してみてよ。うつろな、ほとんど暗黒の空間にすわりながら、死んでもいなければ生きてもいないっていう状態を。しかも、自分が人を傷つけたっていう意識ははっきりしているのよ。みんなが悲しんでいる声が聞こえているんだから」
 この話を聞かせてくれたそのクライアント、ステラは、いまもからだの痛みに苦しんでいるが、精神的苦痛からは解放された。再び生きるチャンスを与えられたという安堵感が、彼女の心の中で光を放っているのだ。
 ステラは、とても誠実で、すばらしい女性である。彼女が絶望からとった行動は、理解できるものだ。私たちには、苦痛の力を判断することはできない。だれでも、耐えられないほどの痛みだと思えるようなものを、経験したことはあるはずだ。ステラのように、耐えられないほどの痛みを絶え間なく経験して暮らすというのがどんなものだか、なかなか想像できるものではない。理性的な人間ならだれでも、そういった苦しみを終わらせようとしたがるだろう。人間は、馬や愛するペットの場合、苦しみから解放してやるために安楽死を選ぶ。では、人間だけがなぜ苦しみに耐えなければならないのか?
 ステラの話から、自殺の悲惨な結果が明らかになっている。自殺によって生み出された空虚感は、肉体的苦痛よりもはるかに苦しいものだ。しかも、精神的な苦痛は相変わらず続いていく。
 肉体的な苦痛は、さまざまなかたちで私たちを試している。より高次の自我に向かって手をのばし、精神に目を向ける機会を与えているのだ。そして、過去の人生からもたらされたカルマを解き放ってくれる(動物は解釈する能力を持ち合わせていないので、カルマをつくり出さない。だから苦しむまま放っておくわけにはいかないのだ)。
 自殺をした人間は、地獄へいくわけではない。前述したとおり、地獄というのは邪悪な人間のみがいく場所だ。自殺する人間が邪悪であるということは、まずないはずだ。絶望し、平常心を失っているか、意気地がない人間なのだ。邪悪な人間は自分の行動を悔やんだりはしないが、自殺した人間は、たいていの場合ただちに後悔するものだ。
 自殺しても、魂は相変わらず物質界に結びついているのだが、それを目にすることはできない。このリンボのような状況内で、魂は自分自身と他人へ引き起こした苦しみに気づく。それはまるで、悪夢の中に生きているようなものだ。自然死は、安らかに眠ったようだという言葉で表現される。だが自殺者の場合、安らぎなどみじんもない、苦悩の眠りなのだ。
 絶望には、さまざまな面がある。それは人々を自暴自棄に陥れたり、理性を奪ったりする。だが生涯を通じた善良な行いを、たった一度の絶望で打ち消すことはない。自殺したことで地獄に落とされたりはしないが、ひどく苦しむはめになる。死は存在しないということ、自殺は万有の法則を破るということに気づいてほしい。それに、いずれはこのつけを払うことになるカルマの存在にも気づくはずだ。ステラの経験は、自殺の悲惨さを物語っている。
 世の中には、臨死体験を語るすばらしい本がある。だが自らの意志で死にかけた人が、楽しい臨死体験をしたという話は、まだ読んだことも聞いたこともない。自殺未遂をした人がいってきたという場所はみな、不快きわまるところなのだ。
 それに、転生の時がくれば、前世で自らの命を断つことになったのと同じ状況下に生まれ変わることになる。その試練は、物質界での経験を断つことなく、乗り越えなければならない。自殺は、物質界での問題を先送りした上に、精神的な苦痛を新たに引き起こすだけなのだ。

 命を断つことが許される場合はあるか?

 より高次元の真理を守るために自らの命を断つというのは、勇気ある無我の行為、すなわち神の力で守られた行為だ。
 たとえば、敵に捕らえられたレジスタンスのある戦士が、何百人もの生命に関わる秘密を握っているとする。当然、捕らえた側は彼を拷問し、口を割らせて情報を得ようとするはずだ。だが彼が裏切りよりも死を選んだとする。この場合、彼はより高次元の理想を守ることになる。彼の勇気ある行動のおかげで自由が守られ、多くの人間が救われるのだ。この行為は罰せられない。尊ばれるものだ。その動機は、高度に精神的なものなのだから。
 日本の神風特攻隊は、目標を確実に狙うために、死を覚悟で操縦席から離れようとしなかった。彼らは、国を守るためにそうしたのだ。この状況もまた、自殺とは見なされない。なぜなら彼らの動機もまた、より高次元の理想を守ることだからだ。
 もっとも高尚な理想に動機づけされた無我の自殺行為だけが、許される。だが人生で行き当たる問題を避けるための自殺は、決して受け入れられない。
 
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