実録・幽顕問答より 古武士霊は語る 近藤千雄・著 潮文社 |
伝家の宝刀 さて話はともかくも霊箱ができ次第それに遷ってもらうところまで来ましたが、そうなるともう二度とこうして語り合うこともできなくなるであろうから、霊をしばらく引き留めておいて、アレコレ聞いておこうということになりました。 そこで吉富氏が宮崎氏に「貴君の御剣のことを“三振りのうちの一振りなるが”と小言で言ったわけを聞き給え」と言い、山本氏も「その三振りというのはいかなる意味であろうか」と言うと、宮崎氏も「良いところに気付いてくれた」と言ってさっそく新たな問答に入りました。 宮崎「先月、拙者が振りかざせし剣をそこもとは三振りの中の一振りと言い、またそれを念入りに拝見されし様子はいかにも故ありげに思われたるが、何かわけありてのことか」 山本「御剣加持で呪文を唱えつつ左右に三度振り返したことを三振りと言いしなるや」 霊「ただただ尊き余りに拝見せしまでにて、別に仔細はござらぬ」 ここで吉富氏が小声で宮崎氏に「“さても三振りのうちの一振りが廻りめぐりていかにして”と聞こえたり。さほどまで嘆息するにはいかにも仔細あるべし。大門君、今一度強くお尋ねあれ」と進言すると、山本氏が武士に向かって「ご自分の所持の三刀の一つでござるか」と畳みかけて聞きますが、武士は無言のままです。 宮崎「先夕そこもとは余が持ちたる刀に心をとめ、かつ二度も“三振り”との言葉を用いて慕わしげに見えたり。さまで一念の残りたる刀を拙者が愛蔵するわけには参らぬ。いかなる不吉の三振りなるも知らずに家に永く留め置くこと潔(いさぎよ)しとせず。そこもとの石碑の下に埋めて進ぜむ」 山本「その通りにてはござらぬか。さほどまで念のかかりたる刀は秘蔵するに及ばず。早く塔の下に埋めるべきなり」 こう言われてもなお黙しておりましたが、ややあって「水を呉れよ」と言いました。作次郎という男が水を汲んで差し出すと、武士はそれを飲み干してから、しばしのあいだ胸をさすったり横腹を押さえたりしたあと、こう言いました。 霊「その刀はその刀、とご承知あればそれでよし」 宮崎「聞かねば聞かぬほど気掛かりになるものなり。さまで申しかねるところをみれば、さぞかし不吉なる刀でござろう」 霊「一を言えば二を言うに至るゆえに包み隠したれど、かく重ねて問われるに及びては如何にせむ。その刀は決して不吉の刀ではござらぬ。余が本国にて上様より賜りたる三振りの中の一振りなり。今その賜りしいわれは軽々しく申すべきことにあらず。口外いたし難きところは何とぞお察しあれ」 山本「それほど尊き刀を何ゆえにこの辺鄙なる地まで携えて来られしぞ」 吉富「そのわけを是非とも語り給え。君父にかかわることを包み給うことはかねて言われし故に控えるが、それ以外のこと、その刀をこの地へ持ち来られし由はぜひとも承りたし」 宮崎「“廻りめぐりて”と言われしは加賀の国に残し置きたる刀が廻りめぐりて余の家に来たとの意味なるか、そこもとのが三振りの一つか、それとも余の家のも三振りの一つという意なるか、一応くわしく承りたし」 霊「さにあらず。今は包み難ければ物語らむ。余十七歳のとき国内に騒動起こりしが、その折、父は無実の罪に沈み、ついに上様のお咎めを受けて国を逃れたり。出国のみぎり父が母に申し置かれしは、余はただ一人の男児なれば必ず泉家を再興させよ。上様より下賜のこの一振りは家宝として大切に余に伝えさせよとのことであった。 しかるに余は父のお供申したく、その旨を母に願うこと度々に及べども、母はその都度たって引き留め、親一人を思いて代々の祖先の家を滅ぼすことがあってはならぬ。真実われを思う心厚きならば国にありて家を再興せよ。たとえ後より来るとも言葉は交わさじとの父上の遺言なるぞよ。必ず出国無用となり、とそれはそれはきつく引き留められましてござる」 そう述べて武士はハラハラと涙を流し、それを見ていた一座の者も思わず貰い泣きして、しばし涙にむせんだということです。宮崎氏もよほど感動したとみえて、傍注で 「カカル事アリノママニ(如何ニモ短筆拙文ニテハ書トリカタシ。書ハ意ヲ尽サズトハ宜(むべ)ナルカナ。コノ人ノ義心ノ有ヲ以テ又ソノ父ノ義心思イヤラルル也」と述べています。 宮崎「して、そこもとは十七歳のみぎりに国元を出で、いずこにて父君に面会なされしぞ」 霊「されば余は、母が引き止むるを聞き入れず伝家の一刀を携えて国元を出で、諸国を廻りめぐりて六年ぶりに芸州ヌバタという所にて父に行き逢いたり。そのとき父は余を見て大いに怒り、母に言い置きしことは伝え聞きしはず。汝が母の命に背きて家出せしは取りも直さずわが命に背きしなり。汝はただ一人の男児なれば、汝をおいて他に家を継ぐ者なし。一刻も早く帰りて母と共に家を再興せよ。われは濡れ衣の乾くまでは死すとも帰り難き身なり。よく聞き分けられよ、父として子を思わぬ者があろうや。されど汝がわれの跡を慕うは孝にして真の孝にあらず、と理を立てて責められては、跡については行かれませナンダ」 と、またもや涙ながらに語るのでした。 ところで芸州というのは私の在所の広島県ですので、県立・市立両図書館へ行って古い地名を調べてみましたが、ヌバタという地名は見当たりませんでした。ただ「日本歴史地図」というのをめくっていくうちに〈挙兵後の頼朝の勢力圏〉という図の中の広島県の拠点が〈沼田〉となっているのが目に入りました。瀬戸内近くにあります。頼朝の挙兵は一一八〇年で、このあと出てくる武士の在世中の年代のせんさくの中で“延暦”(西暦八〇〇年前後)よりずっと後で「家康などという名前は知らぬ」と言い、「頼朝公の頃か」と聞くと「そのことはこれ以上お聞きくださるな」と言って逃げていることから、どうやらその頃であるとの察しがつきます。 私の勝手な推測では宮崎氏がヌマタをヌバタと聞き違えたか (バとマは口の形は同じ)、それともそういう呼び方をした時代もあったのか、あるいは事実ヌバタという小さな浜でもあったのか、そのいずれかであろうと思います。又“沼田”をヌタと呼んだ時代もあることは事実ですが、固有名詞の呼び方は本来のものと土地の人の俗称とがあるもので、宮崎大門の生松天神の場合も、私が土地の人に道を尋ねたところ「ああ、イクマツさんね」という返事でした。 吉富「して、そこもとは強いてお供なされしや」 霊「イヤ、父はその夜ひそかに船にてその浜を離れ、ついに行方(ゆきかた)知れずになりたり。聞けば九州小倉行きの船に便乗されしとのことなれば、余も舟を雇いて小倉まで行き着けり。されど父はまだ小倉には来りまさず。余はそれより九十余日小倉に滞留せり。その後ようやくにして父が着きたれば言葉を尽くして随行を願えども、父は一言の返事さえ為し給わず。程なく肥前の唐津へ向けて急がるるにより、余も後より追い慕いたり」 宮崎「小倉よりこの地まで何という所を通られしぞ」 霊「小倉よりこの地まで数カ所通行したれど、覚えんと思わざれば一々は覚えず、心に留めぬ所は忘れたり。今もなお覚ゆるは小夜(こや)という土地の川辺を通行せしことにて、そこは家居も多く、近くの田圃のここかしこに三軒五軒の民家ありたり。またひとしお目に止まりしは博多の津なり。旅船多く集まり、軒数も多く、勝れて良き所なりし」 読む者をしてしんみりとさせる、余韻あふれる一節です。異国の土地の、それもとくに夕暮れ時のさんざめきは、なぜか侘しさを誘うもので、父への思慕を秘めた若き武士の心には、当時の日本ではたぶん一、二を争う規模の大陸との接点として活気にあふれていた博多港のにぎわいは、さぞかし旅愁をさそい望郷の念にも駆られたことでしょう。(注@) 品格いやしからぬ若武者が腰の伝家の宝刀と胸の痛みを携えて、刻一刻と運命の割腹へと近づきつつある姿を想像すると、私の胸までやるせない思いで締めつけられます。この時の熊太郎の胸中をよぎっていたのは父に随行を拒まれたその痛恨と同時に、これで泉家も自分の軽卒な行動ゆえに断絶することになるという、武士としての最大の屈辱感だったのではないでしょうか。一点非の打ちどころのない環境に生まれ育ち、父の挫折なかりせば名門の大名となりえたかもしれないほどの条件を揃えていただけに、挫けた時の無念もまた大きかったわけです。 それにしてもこの武士の懐旧談を読むと、数百年も前のことをよくも記憶していたものと感心しますが、それは同時に、右の無念が強かっただけに、それだけ強く地上的感覚に浸りきったまま生き続けてきたことを偲ばせます。ふつうは地上時代の地名や人名(自分の名も)および年月日は急速に忘れ、思い出しにくくなっていくものです。 なお、このあとさらに突っ込んだ地名のせんさくが行われていますが、次第に現在地に近い地理が出てきますし、また大して意味もないことなので、それは削除することにします。現地での取材旅行では新幹線の博多駅から電車とバスとタクシーを利用し、たびたび土地の人に確かめながら参りましたが、「塩焼きを業とせる貧しき里にて、家数およそ三十軒ばかりなり」という侘しい浜が、今では万の単位の人口をかかえる交通の要衝となっていたり、県立図書館にも見当たらない地名もあったりして、数百年の流れをしみじみと感じたものでした。 注@大陸との接点――自然人類学の埴原和郎・東大教授の研究によると、紀元前三〇〇年から紀元後七〇〇年までの一千年間の日本の人口増加率は世界のどの民族に比しても異常に高く、自然増加だけではとうてい説明できず海外からの渡来者という要素を考えざるを得ないという。その比率は在来人1に対して渡来人25、小さく見積もっても1対8.6という逆転した数字になり、当時ものすごい勢いで日本列島へ渡来者が流れ込んでいたことを推測させる。 右の期間はこの武士の時代より少し前であるが、当時もなおかなりの勢いで大陸との交渉が続いていたことは間違いない。(『科学朝日』一九八八年・二月号) |
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