輪廻転生
驚くべき現代の神話
J・L・ホイットソン/J・フィッシャー・著
片桐すみ子・訳 人文書院
 
第4章 生と生のはざま
C

 この世を去る

 詩人ディラン・トマスは、死の概念にひたすら敵愾心をかきたてられた。

 従容と あのやさしい夜の中へ入ってはいけない
 ……怒れ 怒れ 消えかかる いのちの灯にむかって


 彼は弱り衰えた父にこうせがんだ。
 人みなそれぞれ死とはどんなものか考えているだろうが、各人の態度や人生の内容、魂の発達状態が、この世を去るときの体験内容にかなり影響を及ぼすことに気づいている者はほとんどいない。
 肉から霊へといともかんたんに移行できるのは、気高い魂の衝動にしたがって性格形成をしつつ人生をおくった人々だ。彼らは肉体の崩壊をよろこび、今までとじこめられていた身体からの解放を期待して明るい気持ちになる。発達をとげた人でもこれまでの人生が不完全だったと感じれば、バルドの崇高さに再びめぐりあう機会を望みながらも自分のいたらなさを嘆くだろう。
 人格の未発達の人がとる立場はたいてい次の2つ――死んでからどうなるかが心配で身体に残ろうと悪あがきするか、それとも健康に恵まれなかった場合などはことに、その身体をできるだけ早く新しい「洋服」と取り替えようと早々にまた転生していくか――のうちのいずれかである。
 非業の死をとげたショックは当惑や怒り、自己憐愍、復讐などの欲望をひきおこすため、身体から抜けでた魂をこの世にひきとめる原因となる。ある大学教授は、何百年も前のアメリカ南西部のインディアンだったときの前世で殺された模様を再体験したが、超意識へ入っていくときの心の動きを思い出して彼はつぎのように語っている。

 ほかの3人のインディアンになぶり殺しにされ、手足を切断された私は、怒り狂って体外へと浮かび出ました。もっと鍛練を積み、体調もよければ助かったのに……身体を離れるとき、怒りのあまり拳をふりかざしていました。攻撃から身を守って生きぬくチャンスがもう一度ほしかったのです。

 よく引き合いにだされる、移行の元型である「トンネル」体験は、この世を去るときに共通してみられる特徴である。ホイットン博士の被験者たちは下のほうに横たわった自分の身体を「見」てから、長い円筒形の通路を通って急激にひっぱられていった、と繰り返し述べている。それから自分は肉体を去っており、のこされた親族や友人をなぐさめたり安心させることはもうできないことを知る。だがほとんどの場合、不思議ですばらしい体験がはじまるため、この世への愛着心はすぐに消え失せてしまう。
 管とかトンネルは、死後の世界へと通じる通路の役目をしているとみられる。まだ移行の最中に「案内人たち」に会い、中間世へと連れていかれる者もあるが、たいていは一人で旅をつづけ、旅路の果てには大勢の見知らぬ人々と合流するという。バルドへ新たに到着した者たちをむかえる人――すでに他界している身内の者や友人、指導者、ガイドなどで、これまでずっと自分が「引率」する人の生活を見守ってきた人――が、行く手を照らすたいまつを持っている姿を見受けることがよくある。非物質的な印象がどのようにシンボルへと翻訳されるかが、このたいまつを持つ姿によくあらわれている。その性質からいって、中間世は「場所」であろうはずはなく、たいまつなどの道具もないはずだ。存在するのは思考、すなわち無意識が理解しうる対象へと変換した思考だけなのである。作家スチュワート・C・イーストンは生と生のあいだの状態をこう書いている。
中間世は「……空のうえなどの場所にあるのではない。物質的ないしは有形の世界につながるものすべてを完全に忘れ去ることによってのみ想像可能な存在の状態として考えるのがいちばんいい」。だが、もしこの別の次元を知覚するとしたら、その抽象的な要素は、現在の人生か別の人生で知ったシンボルを用いたイメージへと変換されねばならない。
 
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