輪廻転生
驚くべき現代の神話
J・L・ホイットソン/J・フィッシャー・著
片桐すみ子・訳 人文書院
 
第4章 生と生のはざま
I

 何回か先の人生まで計画してきた人たちは、自分たちの成長に深くかかわりあっていると考えられる。このように堅い決意を持つ魂は、バルドの期間のほとんどをある種の勉強に費やしたと語っている。一方、物質界にとらわれている魂は、中間世に入った最初のしるしが見えたところで急いで肉体へと戻っていったと話している。また、向上心のない人々は、裁判官のまえにでると、往往にして眠りに落ちてしまい、この世にまた生まれていくために目を覚ましなさい、とせかされるまでずっと気づかないという。
 中間世で知識を得て、魂はつぎの転生や学んだことを実行にうつすチャンスにそなえる。実際に応用してみなければ熟達できないからだ。ホイットン博士の被験者のほとんどは、自分たちが図書館や研究室のある広い学舎で一心に学んでいるのを見たという。たとえば医者や弁護士などは、中間世にいるあいだに各々の教科を勉強したと語っており、「宇宙の法則」や他の形而上学に似た課目をとったことを記憶している人たちもいる。この世にはそれに相当するものがないために、どう表現していいかわからないような課目を学んだと語る人すらある。ある女性は神の道を発見するための自分の探求について遠回しにこう報告している。

 私たちは神の像に似せて創造されています。つまり、私たちは神のようになって神のもとに戻らねばならないということです。もっと高い次元の世界がたくさんあり、神のところへ帰るため、神の霊が住まう世界に達するためには、霊が真に自由になるまで衣服をぬぎすてていかなければならないのです。学ぶことには終りがありません。ときには私たちは高次元の世界をかいまみることを許されますが、高い次元にいくにしたがってどの世界も、より明るく、輝きを増していきます。

 計画をたてる過程をみればわかるように、この世で起きることの多くはすでに大なり小なり中間世において下稽古がすんでいる。ラルフ・ウォルド・トラインは、その著作『無限なる者の声をきく』で1897年の昔にこう書いている。

 すべてのものは、眼に見える世界に出現するまえに、まず見えざる世界のなかで作り上げられている。現実の世界にあらわれるまえにイデア界のうちに作られ、物質のうちにあらわれるまえに精神のうちに作られる。見えざる領域とは原因界であり、見えるものの領域とは結果の領域だ。結果がどんなものになるかは、つねにその原因がどのようなものかによって決定され支配されている。

 中間世の状態にあるとき、私たちはいわば壁画の下絵をかく画家のようなものだ。いったん肉体に宿ると、私たちは描こうとした傑作にとりかかる。くる日もくる日も全体の構想を細部まで仕上げようと、壁にへばりついて仕事をつづける。そしてついには――死に際して、もしくは超意識を通じて――壁からしりぞき、芸術作品をながめることができる。生と生のはざまに戻ったときにだけ、自分の立てた目標に対してどれだけ忠実だったか知ることが可能となる。
 もちろん下絵をつくっても、実際にその通りのものができあがると決まったわけではない。計画は作成ずみかもしれないが、それを遂行せねばならないわけではないのだ。それでは、私たちが中間世で決めたことに対して忠実であるかどうか、人生の途中でわかるだろうか。答えは心の内から出てくるはずだ。カルマの台本どおり生きぬいている人とか、台本以上のことまでもしてきた人々は、人生はしかるべく展開しているのだ、と心に感じる。計画を逸脱してしまった人々にしてみれば、何事も意のままにならないように感じられる。混沌が支配するのだ。スポットライトの下へと足を踏みだしはしたが、おろかにも自分のせりふを思い出せなくなってしまった役者のように、彼らは人生というドラマが展開してもその場しのぎの芝居をやるしかない。ところが、良運と悪運とのあいだ、人生の台本づくりの立場と即興芝居をする役者として舞台をつとめる立場のあいだに、成り行きまかせの状態に置かれたように見える人々もいる。この人たちには計画はあっても、いくらでも即興を演じてもいいことになっている。
 何年かまえ、イリノイ州にあるインディアンの墓地のちかくの藪に誘い込まれてレイプされた37歳の女性の場合がそうだった。ホイットン博士に相談にくる前、この女性はなぜ自分が犠牲者になってしまったのかとかなりの時間とエネルギーを費やして考えてみたが結局は無駄に終わった。その後、生と生のはざまを旅してみると、このレイプは計画されていたものではないことがわかった。ところがそれと同時に彼女のカルマの台本の筋書には、人生の一大転機をもたらす偶発的な悲劇のため傷つくことになっている、と書かれていたのである。彼女はこう語る。

 私の計画では、三十代で自分の魂が完全に変貌をとげるような悲劇的なできごとに出会うことになっていました。この事件に焦点をあわせ、適当な手段でもって、自分の人生とはなにかを深く考えようというわけです。そして、その通りのことが起こったのです。

 裁判官たちの助言を拒むのも自由であり、魂は自分に都合の悪い勧告を受けても無視することがある。勧めを拒否することは、転生が無計画に行なわれることを意味するため、実りのない無用の艱難辛苦がいつ襲ってくるかも知れない。無計画に生まれ変わるのもまたひとつの選択である。そうなった場合困るのは、台本がないため、魂は風にそよぐ葦となりかねないことだ。運命に関与する者というより、宿命にもてあそばれる者になりかねない。「三人」を無視しても罰は受けないが、そうした場合にはまず、人生の終りになって自分の人生は無駄だった、と悔やむ結果になるだけだろう。
 時としてトランス下の被験者が、自分は中間世の状態で計画をたてていなかったことを知ることがある。それを博士に告げるときの被験者は、かならず不安そうな表情をする。一方、カルマの台本に頼るひとびとは、催眠下でその困難にみちた人生計画を語るときでさえ淡々としている。予定の立っていない未来ほど悪いものはないらしい。
 
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