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第5章 輪廻転生思想の展開 A |
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生と生のはざまにいるとき、私たちは生まれながらに天上界から受け継いだ遺産と一体だが、地上に戻り、肉体に宿っての体験という熱の中で運命を鍛造する作業にふたたびとりかかると、根源たる神と親しんできたことも一時的に忘れ去ってしまう。中間世の知識は抑圧され、変形して確信や信念となり、やがてこれらは宗教――すなわちあとにしてきた崇高なものへのあこがれや渇望――となっていった。輪廻転生の教えは、古くからの権威ある経典のあちこちにみられる。仏典では、肉体から肉体へと移っていくさまは、ろうそくからろうそくへと移しかえられていく炎にたとえられ、魂は、彫金師が金に模様を施すときに使う型として描かれている。古代の聖典には、カルマの鎖につながれた人間に生死をくりかえさせる輪廻についての言及が多い。つぎの章のテーマであるカルマとは、一連の転生の条件を定める自己決定の要因につけられた名前である。文字どおりには「行為」を意味するカルマは、つぎつぎと続く人生における、因果の入り組んだ相互作用をいう。中間世の状態ではカルマが何を要求するかが痛切に感じとられる。聖パウロは「ガラテア人への手紙」六章七節で、「人は種をまけば、その刈り取りもすることになる」といっているが、これこそ現に人を離れて作用するカルマのはたらきなのだ。人間の考えたこと、行なったことはすべて宇宙に作用し、それ自身の反応をひきおこしていく。 ヒンドゥー教や仏教の教えのため、10億をはるかにこえるアジアの人々は、自分たちが生死を何度もくりかえさなくてはならないと受けとめている。この人たちの望みとは、無私の心で他人をあわれみ、真理を探求することによって、輪廻への呪縛とひきかえに解脱もしくは救いを速やかに手にいれることだ。ところが弱点だらけの人間は、たいていそうは行動せず、カルマの課した仕事に追われ、この世の感覚的な楽しみを追い求めてしまうので、肉体から肉体への浄化の旅はかならずつらくて遅いものとなることも彼らは知っている。2万5千年あまりのあいだに550回転生したといわれる釈迦も、この世への執着が、人間を生れ変わりという単調で進歩のない足ぶみ車のようなものにしばりつけているのだ、と強調している。 (中略) ローマの名雄弁家で哲学者のキケロも、子供がたくさんのことをすばやく把握するのは、「生まれるまえに人間は大抵のことを知っていたという大きな証拠」である、と同じことを言っている。才能は必ずしもその人生で開発されたとは限らず、前世に起因するのではなかろうかと考えられるが、神童の存在はこの問題にまちがいなく強力な状況証拠を提供するものであろう。 |
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