輪廻転生
驚くべき現代の神話
J・L・ホイットソン/J・フィッシャー・著
片桐すみ子・訳 人文書院
 
第6章 宇宙という教室
A

 歴史的にみると、カルマについての考えかたは過去五千年間のうちに大きく変貌をとげてきた。古代エジプト人から伝わった時点では、カルマの報いとは悪業に相応の報いを与える道徳の会計簿の、呵責ない清算を象徴するものだった。「汝の行ないは変じて汝の裁きとなる」と紀元前2600年の昔に書かれた『プターホテプの教え』の28節にある。旧約聖書でも新約聖書でもこれと同じように強硬であり、さらに強い復讐志向さえみられる。「ヨハネの黙示録」13章10節には、「天をとりこにしようとする者は自らもとりこにされるであろう。天を剣で殺す者は自分も剣で殺されねばならない」と書かれている。
 イエス・キリストの死後何世紀も経ると、古代の法則の解釈はしだいに複雑なものになっていった。キリスト教的グノーシス派やヘブライ人のカバラ研究家たちはカルマを償いの法則として理解するにいたった。人を殺した者は必ずしも同じような状況で死を宣告されるわけではないが、何らかの方法でその行為のうめあわせをするよう期待されていた――来世では、死にいく者や不具者の世話をするためにこの世に戻ることになるかもしれない、といった具合に。
 3つ目は、今日にまで及んでいる解釈で、中世ヨーロッパの神秘主義にその源を発すると考えられるものだ。この解釈によれば、カルマは単に学びのプロセス、すなわち試行錯誤をくりかえして少しずつ知識を吸収する「スパルタ式の学校」ということになっている。殺人の罪を犯せばそれをきっかけにいろいろな事件が設定されるが、そのため必ずしも人殺しの犠牲者になったり、すすんで償いをするよう強制されたりはしない。どんな形ではねかえってくるにしても、その結果は殺人者にこう教えるであろう。そんなことをしては我が身を破滅させるだけであり、他人の肉体を破壊することによって単に自分自身の精神的発達を遅らせたにすぎないのだ、と。
 ホイットン博士の被験者たちの前世の調査記録には、これら3つの解釈すべてが反映される傾向にあり、「眼には眼を」式のものは、とくに個人の未発達の段階の証言に目立つ。カルマとは、自分の性質を高めていくための手段として自分自身が創りだしたものだ、と中間世に連れていかれた被験者たちは語っている。彼らがくりかえしトランス下で力説した点は、不完全さを取り除き、さらに成長をすすめていくためには、一定の体験を経ねばならない、ということである。これらの経験の取り扱い方いかんで進歩の度合いが決まり、もし学習が完了しなければ同じ状況をふたたびくりかえさなくてはならない。宇宙の教室では、習うより慣れよ、というわけだ。では、カルマの因果関係が何世紀にもわたってどのように及んでいくか、その例をホイットン博士の扱った症例のなかからみていこう。

 ☆ ベン・ガロンジは前世への退行によって一連の男女の生涯を再体験し、自分にひどい仕打ちをした者たちを殺すという、非情な仕返しをしたことを知った。今生で彼は、またしても敵対関係に追い込まれ、力ずくで決着をつけたい誘惑にかられた。子供のころいじめぬかれて育ったベンは、大きくなっても執拗に父を憎みつづけ、18歳のとき父を殺す一歩手前までいった。ある晩父が酒に酔いつぶれてしまった折、ベンは父ののどを切ろうと台所の引き出しから肉切り包丁を取りだしたのである。そのとき心の中にささやく声がきこえ、彼は決心をひるがえして包丁を引き出しにもどした。殺人は決してするまいと心に誓って、ペンの人生は大きく変わった。生来やる気がなかった彼は一転して向上心に燃え、性格も外向的になって仕事にはげんだ結果、経営者として責任ある地位につくことができた。
 中間世でベンが知ったのは、自分のかかわったカルマの状況が、いくら腹が立っても暴力に訴えずに耐えることを学ぶために意図されたものだった、ということだった。前世で何度も敵対関係にあったと思われる父からひどい仕打ちを受けることを承知のうえで、苦難にみちた子供時代を選んだこともわかった。バルドでベンはこう語る声をきいた。
 「今回正しい行ないをすれば、ことはうまく運ぶだろう。さもなければ、もっと厳しい学習環境を必要とすることになろう。
 ベンはすぐに、あの肉切り包丁の一件に合点がいった。あの決定的事件で父に対し自制心をもって行動したことで、彼はカルマの苦境に打ち勝ったのだった。みずから課したテストにパスし、彼はあいつぐ人生での過ちのパターンからついに脱したのである。
 
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