輪廻転生
驚くべき現代の神話
J・L・ホイットソン/J・フィッシャー・著
片桐すみ子・訳 人文書院
 
第6章 宇宙という教室
C

 釈迦の哲学はヒンドゥー教の賢人たちの著作から多くを受け継いでいるが、おどろくべきことには、その釈迦でさえ、いまだに及ぶカルマの影響力に悩まされていた。ある日釈迦は、足にサボテンの刺がささったおり、通りがかりの人々からは冷たい言葉をなげかけられ、近くの村に托鉢に行っても何の施しももらえなかったことがあった。前世から持ち越した自分自身のカルマを説明するよう求められて、釈迦はこう答えた。

 「……カルマの束縛は忠実な召使のようなもので、すべての者につねにつきまとっている……カルマは時のながれのようなものだ。たえず人間を追いかけてくるその流れを止めることはできない。カルマの蔓は長い。新しいけれどもいまだに古い果実でおおわれている。すべての者のすばらしい道連れだが、引っ張っても、つかんでも、引き裂いても、引き抜いても、ねじっても、こすっても、砕いても、決して取り去ることができない。」

 釈迦は、たとえ高いところまで到達しても、前世の過ちをのがれることも破棄することもできないことをあきらかにした。法は法であり、カルマの状況の目標である叡知に到達する近道はない。アラン・ワッツは『禅の精神』で、「……人間のカルマは影のように人についてまわる。『自分の影のなかに立ちながら、暗いのはなぜなのだろうと人間は不思議がる』といわれてきたように、たしかにカルマとはみずからの影なのだ」と書いている。カルマに終止符をうつには、昔の負債を完済しなければならず、新しく借りをつくってはならない。多くの生涯にわたる帳簿上の収支を清算しうる方法はただひとつ、愛と無我の戒めを全身全霊で受け入れることだ。もうひとつ、ジョセフ・ウィードのことばを引用してみよう。

 「ほんの少しでも利己心をもって行動したり、見返りをもとめて善行を行なうかぎり、その報いを受けるためにこの世へと戻らなくてはならない。原因には結果があり、活動には成果がある。欲望はこれらをつなぐ紐である。紐の一本一本の糸が燃えつきて切れるとき、その関係も終わり、魂は自由になるであろう。」

 カルマの概念のもたらす結論としていちばん重要なのは、私たちのおかれた境遇は決して偶然のなせるわざによって決められたのではない、ということだ。この世で私たちはバルドで選んだことを体現している。私たちが、バルドの肉体をもたない状態にあって決定したことによって今生の境遇が決まり、潜在意識のありかたによって、良運や悪運がめぐってくる。カルマの法則が真実だと確信することはすなわち、たとえ現状がいかに困難でも、この現状にわが身をおいたのは自分自身なのだ、と認めることなのだ。人はそれぞれ、試練や苦難の中にこそ学び成長するための最大の機会がある、と理解したうえでその試練や苦難を探しだしていくのである。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]