輪廻転生
驚くべき現代の神話
J・L・ホイットソン/J・フィッシャー・著
片桐すみ子・訳 人文書院
 
第14章 生と生のはざまの意味するもの
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 生と生のはざまは、自己とは何かを啓示してくれる。この啓示を通じて、肉体をそなえた人間を正しい観点に立たせてくれる。人間の精妙かつ霊的なもの――すなわち私たちの精髄たるもの――が死をこえてもなお存在しつづけるものである、と超意識は語りかけている。死ぬと私たちはつぎの生の段階を開始するため、みずからの選んだ肉と骨のからだを去っていく。私たちの本来の故郷であるつぎの世界は、私たちに覚醒と記憶と明快さを回復させてくれる。だからこそ、真の自分の姿をみて前回の地上のリアリティへの旅から学び、進歩のほどを評価し、やがては必要に応じてつぎの転生を計画することができるのだ。
 全世界が舞台なら、バルドは舞台の袖にある楽屋裏のようなものといえよう。そこには支柱や滑車や台詞を書いたカードなど、舞台での上演を可能にするものがすべてそろっている。上演が決定されリハーサルと準備作業がすめば、上手下手はおかまいなしに、この世での人生という「演技」は、すでにはじまっている。演技者の手でそれぞれの台本が書かれ、演出され、上演されるが、何回もの人生を演じるためにはたくさんの台本が必要となる。絶え間なく登場と退場をくりかえすきびしい舞台をつとめつづけることによってのみ、学び、成長していくことができるのだ。
 慎重に選ぶか無計画に選ぶかの差はあっても、この世の環境を選ぶのは私たち自身である。超意識はこう伝える。どの人の置かれた状況も――たとえその人がエイズの犠牲者であろうと、堕胎児であろうと、映画スターや、足のない新聞売りや、アメリカの大統領であろうと――それはみな、偶然のなりゆきでも不条理でもない、と。中間世から客観的にみれば、どの人の体験も宇宙という教室の授業のひとこまにすぎない。授業で学べば学ぶほど私たちの成長も早くなる。中間世で計画をたてるときには、かならず愛と奉仕の機会を捜すことになるが、結局この愛と奉仕こそが、自己の成長の根本にかかわると考えるべきである。ときどき孤独を体験することが心を落ちつかせ、元気を回復させてはくれるが、カルマの展開には、人間が相互に影響しあうことが必要である。
 誕生から死までのほんの小さな断片――私たちの現在のリアリティー――を、広大無辺の背景に置いたときはじめて人間存在というものが理解できるようになる。永遠の生命は、いまや単なる宗教上の概念に対してつけられた名称ではなくなり、突如としてリアリティーとなる。たとえ言葉で表現できなくても、この世に存在することの意味と目的とが、驚くほど明らかになる。時間も空間もない、畏敬すべき永劫の無限……中間世にくりひろげられる光景は、息をのむばかりである。
 その無限のなかには、私たちの人生と中間世のすべてが横たわっており、また個人個人を成長させていくカルマのパターンもまたそのなかにある。そしてここから、前世での行為や中間世での体験を細かく調べることができるように、私たちのたどってきた旅路――筆舌につくしがたい長さの、生死をくり返すさすらいの旅――の全貌をみわたすことも許される。この偉大なリアリティーに気づき、死が単なる移行にすぎないことが明らかになれば、世俗的な価値や姿勢や先入観はすっかり変わってしまう。意識が不滅であるという事実は、ひとりひとりの人間の変革に結びつかざるを得ない。カール・ユングが『ユング自伝―思い出・夢・思想』に書いたように、「真に重要なことは無限なるものだとわかりさえすれば、我々は無益なことに興味を向けなくてもすむ」のだ。
 
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