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第8章 供養で供養の心を知る | ||
1、供養で自分の「死後」を学ぶ | ||
生きているときから死を認識せよ この世に私たちが生まれ出て来る時、この世がどんな所なのか、また、誕生ということがどういうことなのか、当然ですが、何も知らずに生まれて来ました。それなのに、もう随分この世のことをわかっている気になって暮らしていませんか。 動物学上の誕生メカニズムは知ったでしょうが、自分があの両親のもとに人間として何故受胎されたのかという神秘の実態は誰一人わかってなどいません。生がわかっていないのにどうして死がわかりますか。死んだら何も無いとなぜ断定してしまうのでしょう。それこそ非科学的・非論理的というものです。 私は、こんなことからも自分は相当な愚か者だぞと思い直して、そこを出発点にして何でも始めることにしております。 太陽を中心に万物が規則正しく回転し、循環し、そして生きているように、大自然はすべてこの偉大な大法則のもとに運航していて、人間の誕生も、死も、この大法則から全く外れていない現象です。 私は、この大法則こそがすなわち御佛(かみ)の心であると思っています。 自分というものも、宇宙の大法則である御佛(かみ)によって生かされているに過ぎない小さな一動物です。草木と同様に生まれて生きて子孫を作ると枯死します。その死んだ肉体は、地球上の物質としては形や組成が変わって、人間と呼べるものではなくなってしまいますが、しかし、その意識体・魂はそもそもの肉体を持たない単独の姿で永遠に生きます。 大宇宙のどこかは見当がつきませんが、そもそものこうした魂が組みこまれて生きている場というものも、ちゃんとあるはずです。 天国とか極楽浄土とか昔から抽象的に説明されていますように、地球上の三次元における存在だけが存在ではなく、地上の人間界から見れば抽象的な位置も、大宇宙大自然の中では確とした場所として存在しているのです。そしてその本来の居場所に成佛という名の帰還をスムーズに行なうのが御佛(かみ)の法則に調和した安らかな魂の運航というものです。 死んで肉体が終わった時に、正しく自覚して新しく意識体として生きようとすれば。迷いも苦しみもなく、ただちに魂の居場所へと帰還できて、もう地上にさまよい子孫にすがるような哀れな状態になることはありません。 従って、この死の自覚は大切なポイントであり、生きているうちから意識に叩きこんでおく必要があります。 いつまでも死に気付かずにいると、「佛に成る」ことができません。ですから、今そんな状態にある人のことを私は「ホトケ」ではなく「死者」と呼んでいるのです。 たとえば肺癌で亡くなったとします。最期の最期まで痛みに苦しんだ肉体が、死とともに一切の活動を停止し、火葬によって骨片と化しても、なお痛いつらいという想いが残ります。自分の死が自覚できれば、痛みも当然肉体とともに消え去り、魂としての行動にすぐに移れるのですが、自覚がなければ、まだこの世に肉体を持って生きているという錯覚の中にあって、痛いとか苦しいとかいう想いだけを持ち続けることになってしまいます。 こうした暗く悲しい不安定な想いの波動が、この世に今生きている肉親の似たような心情と同調した時、死者はその想いで瞬時に憑依して来ます。そして、死者の意識がそのまま人間の肉体機能を使って表現されることとなるのです。 この事実が恐ろしいばかりの現実の現象として示される様子を、私も数え切れぬほどに直接体験させていただきました。 |
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