|
||
第5章 一度限りの人生を生き尽くす | ||
明日は知れぬから今日の感謝 今朝もまた帚(ほうき)とる手の楽しさよ はかなくなりし人にくらべて 「はかなくなりし」には、「儚くなりし」(死んでしまった)と「掃かなくなりし」の二つの意味をふくませています。帚ときたから、こう受けたわけです。 ――死んでしまった人は、帚をとって庭を掃くことも、もはやできない。そういう故人たちに比べてみたら、今朝もまた生きて眼ざめて庭掃きができる楽しさ。ああ、生きているとは、なんとありがたい、うれしいことか。―― 生きていること自体をよろこびとせよ――そう教えている歌です。 「手の楽しさ」という表現がいいと思います。手こそは人間の特性をあらわすもの。その手をつかうことこそは、人として生きていることのあかしである。死ねばこの手もなくなるんだゾ――。 「帚とる手」はひとつの例であって、鍬をとる手、ペンを持つ手、箸を持つ手、妻を抱く手、お尻をふく手……なんでもよいわけ。その手に楽しさを見出す。ナマナマしい、肉感的な表現とさえ言えます。 寒くとも煤(すす)掃く今日のめでたさよ ほかなくなりし人にくらべて 道歌にはときどき、こういう“類歌”が登場します。耳から入れておぼえたのだが。記憶がしっかりせず、少々まちがえて人につたえてしまう。そういうこともあるでしょうし、歌才に自信のある人なら、「このほうがよい」とばかりに、部分的に作りかえて人に教えることもあったかもしれない。そんなことから、似たような歌がともに後の世につたわってしまうわけです。 明日知れぬ身ということに気がついて みればうれしや今日のただ今 表題の歌と同じ趣旨のものといえます。実在する時とは、「生きている今」のほかにはない。その絶対性を指摘しているわけです。 いま無事は天地の恩かわが知恵か 考えてみよありがたい今 「考えてみよ」と問いを出しています。むろん答えは「天地の恩」であって、「わが知恵」や「わが力」ごときではない。本来生かされている身です。おのれひとりの才覚ごときでもって、こうして無事でいられるのではない。ウヌボレちゃいかんゾ。感謝を知れよ。そう教えている歌です。 |
||
← [BACK] [NEXT]→ | ||
[TOP] | ||