を鍛える本
人生に勇気、心に力がみなぎる
櫻木健古・著 三笠書房 
第4章 自分の欲望と上手につきあう

 神だのみと欲の心

  怠りも夏の稼ぎもほどほどに
    穂にあらわれて見ゆる秋の田


 せっかくの米作りの骨折りも、洪水や台風によってムダのようになってしまうということは、ときたまあることではあるけれど、やはり全体的にみれば例外的なことがらであって、ふつうには勤労の結果というものは、秋の実りのとき、正確にあらわれてくるものです。「骨折ったかいがある」ということで、これが大自然の大いなる摂理、法則というもの。天は人を裏切らず、というわけで、この歌はその真理を説いたものです。
 “稼ぎ”はこのばあいには、収穫という意味ではなくて、労働そのもの、あるいは働いた量を指します。夏の労働量がそのまま、秋の稲穂の実りの量となってあらわれる。「努力したら、かならずそれだけの報いがあるゾ」という教えです。

  丹精は誰しらずともおのずから
      秋の実りのまさるかずかず


 という尊徳翁の歌も、同じことを言っていましょう。人知れぬ努力もかならず、結果が形のうえにあらわれてくる。「おのずから」というコトバの重みに注目すべきでしょう。大自然の摂理のきびしさとありがたさとが、この五文字に表現されています。また、この歌はひろく“陰徳”(人にかくれてつむ徳行)をたたえたものとして、受けとってみてもよいでしょう。

  田を深くよく耕して養えば
      祈らずとても米や実らむ


 すでにお気づきのように、日本の民衆の思想には、「欲心から神仏に祈る」ことを否定する考えが強い。「心だに誠の道にかないなば、祈らずとても神や守らむ」という有名な歌、「神仏を尊び、神仏に頼らず」という宮本武蔵の言葉など、すべて同じ線をいっています。「やるべきことをやりさえすればいいのだ。その行為がただちに神につながって、何らかの実りを授かるのだ」という考えです。
 “神だのみ”の裏にあるものは、欲の心と依存心ですから、やたら神仏に頼る人に良き人生の生きられようはずがない。ゆえに「欲からの祈りをするな」という警告が口酸っぱく発せられたわけで、これは道歌の英知の深さを示していますが、同時に、神だのみする人が多かった事実をもあらわしていましょう。この傾向はいまの世にも引きつがれて、ご利益宗教大繁昌の世相となっているわけです。
 宗教心は人間に必要だが、それが依存心を誘発すると、宗教は人間をスポイルするアヘンになりかねません。その依存心につけこんで、「寺の住職」たちが「あとから拾う」ことになる。勤労即宗教と考えたほうが、まちがいが少ないのかもしれません。
 
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