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第4章 自分の欲望と上手につきあう | ||
「モッタイナイ」精神の極致 飯と汁木綿(しるもめん)着物は身を助く その余は我を責むるのみなり (二宮尊徳) 江戸時代の初期、大老として徳川幕府の基礎がために大功のあった土井利勝に、こういう逸 話があります。 ――部屋に三十センチほどの唐糸(とういと)が一本落ちていた。これを拾って、大野仁兵衛という近侍(きんじ)のものにあずけた。隣室にいた若者たちがこれを見て、「あんな糸屑がなんの用に立つものか。大名にも似あわぬことをなさる」と言って、そのケチぶりを笑った。 二、三年のちのある日、利勝は仁兵衛を呼び、「先年その方にあずけた糸屑はどうしたか?」と聞く。仁兵衛、腰の巾着からとり出して「これにて候」という。利勝、自分の脇差の下緒のとけたところをそれで結び、家老を呼びだして、こう言ったという。 「この糸屑を仁兵衛にあずけたとき、他のものどもは、なんの用に立つか、と笑ったが、仁兵衛は、主人の言いつけであるとして、今日までたいせつに保存してきた。まことに殊勝な心がけである。よってかれに三百石を給せよ。 そもそもこの糸屑は、小さいけれども、唐(中国)にて百姓どもが桑をとり、蚕を養い、かくて作ったものを商人が買いとり、遠い海上を経てわが国に渡来し、また長崎から京、大阪をすぎてここまで来たものであるから、これにかかっている人びとの骨折りは小さなものではない。それなのに、わずかの糸屑だからというのでゴミと同じように捨てるのは、天道の咎めをうけるべき行為である。いまこの糸屑はこのように役に立ったのであるから、これを三百石で買ったとしても、無用の出費ではない」―― 「モッタイナイ」の精神の極致ともいうべく、現代人のものに対する考えかたの、反対の極ともいえます。ものを大切にする心も、ここまでくると窮屈な考え、ガンコというものではないのか?…… しかし、そう思うのは私たち今の人間が、もののあり余る状態に馴れすぎてしまっているからでしょう。ものが不足し、欠乏したとき、一本の糸屑、一枚の紙、チビタ鉛筆……等の真価がわかる。しかし、欠乏して初めてわかるのでは、心の達人とはいえない。ものがあり余っているときにも、同じようにそれがわかるのでなくてはならない。むずかしいことだが、そうあるべきだと考えられるのです。 一物一品、どんなに小さいものでも、地の上の唯一絶対の存在である。その価値は拝まれるべきである。使えるものを捨てるごときは、「もってのほか」ということになる。 ものにたいするこういう姿勢が身につくと、「すでにあたえられているもの」への感謝の心は、自然に生じ、必然的に、「ないものねだり」の心は、生じにくくなる道理です。「すでにあるもの」の価値が、わかってわかって困る(?)わけですから。一物一品の尊さがわかると、セイタクは自然にしにくくなってくる。ゼイタクは、「ものを粗末にあつかう心」の所産ともいえます。 “質素”というコトバが国語辞典から消されてしまったのではないか? そう思いたくなるようなこんにちの世相です。だが一物一品を真に尊ぶ心があるなら、暮らしはおのずから、質素にならざるをえないはずなのですが――。 二宮尊徳翁の歌は、質素な生活をすすめたものです。そのほうが、心安らかな、また心ゆたかな生活ができ、経済的にもゆとりが生じてくれるからです。 ものを持ちすぎ、ゼイタクな暮らしをすると、心がものに引っかかって、心労、気苦労がそれだけふえることになる。経済的にもきつくなる。「我を責むる」ことになるのです。 「足るを知る」質素な暮らしこそが、気楽な生きかた、ノンキな人生。「ゼイタクは敵だ」という戦時中のスローガンは、「心の敵」という意味に解するなら、いまの世にも、いつめ世にも生きる金言になるでしょう。「欲は敵だ」といえば、さらに普遍的な真理を語ることになります。 日本経済が高度成長に入って以後の、「消費は美徳」「使い捨て時代」というような考えかたは、人の道、宇宙の道からそれること甚だしいというべく、いつか天罰としてその逆の、ものの欠乏に苦しむ時代がくるにちがいありません。 |
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