[幕末明治]
日本は外国人に
どう見られていたか

来日外国人による「ニッポン仰天観察記」
「ニッポン再発見」倶楽部 三笠書房 
第7章 さまざまな職業と仕事ぶり

 職人たちの鮮やかな仕事ぶりが示す、
 「ものづくり大国」への確かな道すじ


 誰もが魅せられた職人技の見事さ

 日本人は手先が器用な国民として広く知られている。凄腕の熟練工がみせる職人技は、外国人には簡単にはマネできず、常に羨望のまなざしで見られてきた。
 そうした職人技は、幕末明治期に日本を訪れた西洋人をも魅了した。とくに日本の工芸品が彼らの注目の的となった。
 シュリーマンは、「金で模様を施した素晴らしい、まるでガラスのように光り輝く漆器や蒔絵の盆や壺等を商っている店はずいぶんたくさん目にした。模様の美しさといい、精緻な作風といい、セーブル焼き(フランスの代表的な陶器)に勝るとも劣らぬ陶器を売る店もあった」と絶賛する(「シュリーマン旅行記」)。
 さらに、「木彫に関しては正真正銘の傑作を並べている店が実に多い。日本人はとりわけ鳥の木彫に優れている」「国産の絹繊維を商う店が多いのには驚かされた。男女百人を超える店員が働き、どの店も大きさといい、品質の豊かさといい、パリのもつとも大きな店にもひけを取らない」などと、工芸品の素晴らしさとそれを扱う店の発展ぶりに目を見張った。
 チェンバレンも日本の工芸品に魅せられた西洋人の一人だ。彼は、「日本人の天才的資質は、小さな物において完全の域に達する。茶碗、お盆、湯わかしをも美術品に作り上げる方法、(略)これらを日本人の半分もよく知っている国民はいない」と、手放しで賞賛する(『日本事物誌』)。
 ラザフォード・オールコック(イギリス/外交官」もまた、
「あらゆる種類の工芸において、日本人は疑いの余地もなく、卓越した能力を示している。(略)精巧な技術が表現された工芸品などに接していると、私は何のためらいもなく、それらがヨーロッパの最高の製品と比肩しうるのみならず、日本人はこれらの各分野で、我々には真似のできない(略)作品を生み出すことができると言える」
 と、賛辞を惜しまない(『大君の都』)。

 的中したペリーの「技術立国」への予言

 日本の職人の技術力の高さが、本格的に注目されるようになったのは、戦国時代頃からだった。各地の領主が領内の生産性を高めるため、職人を保護して組織化した。
 江戸時代に入ると、諸藩の経済的な独立が確立。職人たちは城下町に集められ、重要な経済の担い手となる。現在も各地に残る大工町・鍛冶屋町・紺屋町などの地名は当時、職人たちが同業者ごとに集まって暮らしていた頃の名残だ。
 やがて諸藩は、経済力強化を目的に、新技術の導人による特産品の生産を熱心に行ないはじめる。その結果、加賀や京都の友禅染、加賀の九谷焼や肥前有田の有田焼、尾張の瀬戸焼といった陶磁器など、日本各地でさまざまな工芸品が誕生したのだ。
 また、農村では農民の副業として塩や油、草履・タバコ・楊枝、ハブラシなどの日用品や、紅・白粉(おしろい)などの化粧品、酒・味噌・酢・しょうゆなどが生産・販売され、この副業からも日本の技術は発展していった。
 幕末に黒船で来航したマシュー・カルブレイス・ペリー(アメリカ/軍人)は、「実際的および機械的技術において、日本人は非常な巧緻を示す。(略)日本人がひとたび文明世界の過去・現在の技能を有したならば、機械工業の成功を目指す強力なライバルとなるだろう」と述べている(『日本遠征記』)。彼は日本人の技術水草の高さを見抜いており、将来日本が世界に台頭するであろうことを予言したのだ。
 予言は見事に的中する。明治以降、日本の機械工業は大躍進を遂げ、日本は世界トップクラスの技術力を誇る国へと成長した。
 その背景に、職人たちが長年培ってきた巧みの技があることはいうまでもない。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]