[幕末明治]
日本は外国人に
どう見られていたか

来日外国人による「ニッポン仰天観察記」
「ニッポン再発見」倶楽部 三笠書房 
第6章 男と女と幸福な子ども

 溺愛して甘やかしても、
 おさおさ怠りない子どもへの教育


 学問は子どもが生きていくための必需品

 江戸時代の子どもの学力は非常に高かったといわれる。バードは、知人の息子について、次のように語っている。
「ユキの息子は13歳の少年で、しばしば私の部屋に来て、漢字を書く腕前を見せる。彼は大変頭のよい子で、筆で書く能力は相当なものである」(『日本奥地紀行』)
 ヴァリニャーノも、「子ども達は我らの学問や規律をすべてよく学び取り、ヨーロッパの子どもたちよりも、はるかに容易に、かつ短期間に我らの言葉で読み書きすることを覚える」と記しており、戦国時代の日本人の子どもの学力の高さに感心していたことがわかる(『日本巡察記』)。
 江戸時代の子どもたちは、現代に比べると、勉強をする機会は少なかった。現代の義務教育のような制度はなかったし、貧しい家に生まれた子どもは幼い頃から商家などに奉公に出て働くなど、誰もが平等に教育を受ける環境にはなかったからだ。
 しかし江戸時代は、武家や裕福な商家だけでなく、町民や農民でも、子どもが6、7歳になると寺子屋や手習所に通わせ、読み書きを勉強させていた。当時は文字がごく当たり前に使われる時代となっていたからである。
 鎖国下の日本に密入国し、日本人の英語教師となったラナルド・マクドナルド(アメリカ/英語教師)は、当時のようすを、「日本人のすべての――最上層から最下層まであらゆる階級の男、女、子ども――は、紙と筆と墨を携帯しているか、肌身離さず持っている。すべての人が読み書きの教育を受けている」と紹介している(『マクドナルド「日本回想記」」)。
 当時は、文字の読み書きができなければ働くことが難しかった。そこで親は、子どもが食べていけるように、と考えて、熱心に教育を受けさせていたのである。

 楽しみながら学ぶからこそ伸びた学力

 幕末の子どもたちの勉強のようすについて、日英修好通商条約のために来日したローレンス・オリファント(イギリス/外交官)は、「日本の子どもたちは男女を問わず、すべての階層を通じて初等学校に送られ、そこで読み書きを学び、自国の歴史に関するいくらかの知識を教えられる」と紹介している(『エルギン卿遣日使録』)。
 初等学校とは、武家の子息を中心とした藩校や郷学(ごうがく)、町民や農民の予習所や寺子屋だ。藩校を卒業後、私塾に進学してさらに高等教育を受ける者もいたし、手習所を修したのちに私塾に通って漢学や蘭学・国学・和算(数学)・武術といった専門の学問を学ぶ者もいた。
 義務教育はなくとも、教育機関は充実していたのだ。
 藩校や手習所・寺子屋などで読み書きを学ぶ一方、子どもたちは遊戯を通じて、子ども社会のルールを学んでいた。バードが「家庭教育の一つは、いろいろな遊戯の規則を覚えること」だと書いているように(『日本奥地紀行』)、それは家庭が行なう教育だとされていたのである。
 勉学は学校で学び、躾やルールは家庭で学ぶという、しっかりとした役割分担ができていたことがここからわかる。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]