生命思考 
ニューサイエンスと東洋思想の融合 
石川光男・著 TBSブリタニカ 1986年刊
 

 森狙仙の三匹のサル

 江戸時代の中期から後期にかけてサルを描かせれば当代一と謳われた森狙仙(そせん)という画家がいた。狩野派の画風から出発し、円山応挙の画風も採り入れ独自の画風をつくり上げた画人として知られる。
 あるとき狙仙が三匹のサルを描き、自信をもって展覧会に出品したところ、見に来ていた当時すでに大御所だった応挙が「このサルの絵だけはいただけない」と酷評した。狙仙はムカッとして「いったい私の絵のどこがよくないのか」と応挙を問い詰めると、応挙は「ここには三匹のサルが描かれている。しかし私の目に狂いがなければ、これは一匹のサルを見て、姿形を変えて描いたのだろう」と断じた。一匹のモデルを三匹に描き分けたにすぎないと応挙は言うのであった。さらに応挙はこうも批評した。
「あなたの描いたサルは自然の中のサルのように見せているが、やはり私の目に狂いがなければこのサルは飼いならされており、野生ではない」
 森狙仙は真っ青になった。応挙の指摘は全く正しかったのである。狙仙は満座の中で恥をかかされて逃げるようにして家に帰り、「自然のサルが本当に描けるようになるまで家には帰らない」と奥さんと子どもを残して山にこもってしまった。
 それから数年して戻って来た狙仙は再びサルの絵を描き。自分の名を伏せて出展した。そのときも円山応挙が見に来ていた。狙仙は応挙がどう言うか身を堅くしていたところ、
「これは実に美事な絵だ。サルが生きている。この絵は森狙仙だ」
 と応挙はうめくように激賞したのであった。
 実はこの話は「花吹雪野猿の図」という講談の一節であるが、興味深いのは応挙がサルは一匹ずつちがう生き物であるということを見抜くところにある。
 生命体というのはたとえ種は同じでも一つ一つが個性を持っており、一つとして同じではない。サルもマウスもアリも集団としてみれば同じ個体であるが。一匹ずつ見れば微妙に異なっている。外見だけではなくそれぞれの個性の差であり、これが生命体の特徴なのだ。
 ところがこれまでの科学は、たとえば人間を見るときはすべて同一という捉え方をしている。だから新薬でも百人とか千人に試供し、八割に効けば有効とされる。一人や二人に副作用が出てもそれは無視されるか軽視されるのである。統計的に有効、無効を決める方法は人間の個性を考えているとはいえない。
 生命体には外見上、多くの共通点がある。人間なら目は二つ、手や足は二本ずつといったように普遍的な共通点を持っている。反面その人にしかない特殊性もある。普遍性と特殊性の両方を合わせ持っているのが生命体なのだ。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]