生命思考 
ニューサイエンスと東洋思想の融合 
石川光男・著 TBSブリタニカ 1986年刊
 

 心が脳内物質を変化させる

 プラシーボという言葉はたいていの人が知っているだろう。化学的成分としては何の効果もない「偽薬」なのに、それを服用すると症状が好転する現象が見られる。実験では、平均して患者の35%に効果が現れる、と報告されている。なぜこんなことが起きるのか長い間わからなかったが、1978年カリフォルニア大学の研究チームがこのプラシーボ効果(反応)のナゾを解くカギをつかんだ。
 親知らずの歯を抜いた直後の人を対象に鎮痛剤(モルヒネ)とプラシーボ(偽薬)を次々に与えて。その効果を調べた。するとプラシーボを投与された三分の一は痛みがぐんと少なくなったと報告した。そこでその人たちに脳の中で発見された鎮痛物質エンドルフィンの作用を抑える薬を与えたところ、痛みがぶり返したのである。
 この研究は、プラシーボを鎮痛剤だと「思い込む」ことによって脳の中のエンドルフィンの鎮痛作用が働くことをはっきりと示した。鎮痛剤と「思い込む」というのは心(意識)の働きである。プラシーボは心の状態が脳の物質に影響を与えることを明らかにし、従来の考え方に変更を迫る新しい問題を引き起こした。
 これまで心は。脳の物質の物理化学的な変化によって引き起こされる受身の存在にすぎないとされてきたが、プラシーボは逆の現象が存在することを示している。
 もともと西洋医学は18世紀に栄えた病理解剖学によって、病気の中心は臓器であるという考えから出発した。そして19世紀に入ると、今度は細胞が病気を引き起こす中心と考えられ、さらに細菌学が誕生し、細菌を原因とする病気の治療法が発達した。またビタミンやホルモンなどの発見によって脚気や糖尿病の原因もわかった。ここまでの医学の発達では、心が体と関係づけて考えられることは全く無かった。
 ところがフロイトの登場によって心と病気の関係が注目されるようになったのである。たとえばフロイトは手足のマヒのような神経疾患は心理的な原因によって起きるが、それを治すには無意識の心理的な抑圧を取り除けばよいことを発見した。
 その後、心の状態が身体に影響を与えることはいろいろな例で明らかになってきている。ガンを宣告されると多くの人は、避けられぬ死を思い、生きがいを喪失したり、抑うつ症に陥ってガン細胞の増殖に拍車をかけ、容態を悪化させる。逆にガンを知らされたことによって、ガン細胞が縮小することもある。そういう人の心理状態を調べると、気持の上で大きな変化が起きていて、残された生涯の一刻一刻をいつくしむようにして生きていこうとする積極的な姿勢が見られることが多い。

 クリの葉でウルシにかぶれた

 ストレスという言葉は現代人にとっては、ほとんど日常語になっているが、これはいまから半世紀前の1936年、カナダの生化学者のハンス・セリエが初めて使い、世界中に広がった。ストレスとは外部からの刺激(ストレッサー)により生命体の中で起きる心理的、生理的な歪みである。この歪みが誘因となって身体的な症状が起きることはいまではよく知られている。
 ただストレッサーによって起きるストレスには個人差がある。ピアノや航空機、車の騒音によって極限の殺人にまで走ってしまうほどの影響の出る人もいれば、がんがんロックが鳴っている中でしか仕事のできない人もいる。ストレスは受け手の心理的特性によってちがうということである。
 心理的特性の中でも。体に対する影響が最も強く現れるのは、何かあることを「信ずる」場合である。
 プラシーボ効果で見られる意識は、効果のあることを「信じる」という潜在的な意識の働きに近い。あることを「信じる」という思考は、自分では自覚できない意識、つまり深層意識(精神分析では無意識という)と深い関係がある。
 ウルシの葉にかぶれる大は結構いるが、その大に、クリの葉を見せて「ウルシの葉です」と言って触らせる。そうするとその大はウルシの葉にかぶれたと同じような湿疹が全身に出た。別の日、同じ大にこんどは「クリの葉です」と言ってウルシの葉に触らせても、湿疹は全く出なかった。クリの葉で出た湿疹とウルシの葉でできたのを比べてみると、全く同じだった。
 これは九州大学の心療内科で行なわれた実験を池見酉次郎教授が『心療内科』で紹介している事例である。プラシーボ効果と酷似しているのは、患者が「ウルシの葉で湿疹が出る」という身体的反応を「信じ」ていることだ。
「信じる」と「考える」とでは似ているようだが生理心理学的にはちがう。私たちは過去の古い体験による記憶を、大脳皮質の内側にある大脳辺縁系というところに貯えている。ウルシの葉にかぶれた体験を持っている人の大脳皮質には、その記憶が貯えられている。この記憶が深層意識である。
 クリの葉を触っているのに本人はウルシの葉、と信じた瞬間にその情報がそのまま大脳辺縁系に伝えられる。すると深層意識は、本当はクリの葉であることを見破れず、過去の体験の湿疹を条件反射的に引き起こす。「考える」ことと「信じる」ことがかなりちがうことはこの例でよくわかるだろう。
 
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