日本人の誇り
日本人の覚醒と奮起を期待したい 
藤原正彦・著 文春新書
 

 「近隣諸国条項」という難問

 世界のどこの地域でもなしとげられなかった、かくも素晴らしい社会を作った日本人の、卓越した特性をなぜ日本人は誇りに思わないのでしょうか。日本以外の国であったら、世界が目をみはった日本文明に関し、歴史や国語の教科書で高らかに謳い上げるはずです。国際社会の中で、自国のアイデンティティーを保つためどの国民にとっても必要な、「祖国への誇り」を醸成するために活用するはずです。
 現代日本の歴史教科書では無論、ほとんど一切言及されておりません。教科書は次々に起きた事件を追い政治、経済、文化を語るだけで、庶民が幸せだったのかどうか、という最も大切なことにはほとんど触れません。先ほど述べましたように教科書を書く歴史家が、自由と民主主義のない封建時代の民を惨めとしか捉えず、また自己肯定に陥るのを忌み、できるだけそれを避けようとするからです。自らを自慢することはしたくない、という日本人の謙遜もそこには働いています。幸不幸という主観的なことを、歴史学という社会科学の中で触れることへの躊躇もあるでしょう。これは経済学者やエコノミストかGDPとか富の増大には真剣に取り組むものの、幸せについては触れないのと似ています。
 それならまだ分るのですが理解し難いのは、祖国への誇りを育むと軍国主義につながりかねない、戦前の愛国教育と同じではないのか、などと心配したり、近隣諸国条項を考慮したりすることです。
 近隣諸国条項とは1982年(昭和57年)に起きた不思議な事件により生まれたものです。その年、新聞やテレビが、「歴史教科書の検定において文部省が『大陸侵略』という言葉を『大陸進出』に書き改めさせた」と報道し、文部省と政府を攻撃しました。すぐさま中国政府は不快感を表明しましたが、身に覚えのない文部省が調べたら「侵略」から「進出」に書き改められた教科書は一つもありませんでした。文部大臣も国会でそう答弁しました。
 ところが不可解なことにその後になって、当時の宮沢喜一官房長官が「今後の教科書検定は近隣諸国の感情に配慮する」という談話を発表したのです。そしてこれは教科書検定基準として定められました。世界のどこにもない奇妙な、と言いますか奇想天外な基準です。
 これがきっかけでその後、何かがあるたびに日本は中国や韓国や北朝鮮に「歴史認識」を問われることになりました。この三国は「歴史認識」が黄門様の印籠でありこれを口にしさえすれば直ちに日本が謝罪し、外交上優位に立てることをこの時学習したのです。そもそも、国家が謝罪するなどということは、私の知る限り日本だけです。主権国家というものは、戦争で降伏し賠償金を払っても、謝罪という心情表明はしないものです。それは自国の立場を弱くし、自国への誇りを傷つけるからです。そしてなにより、もはや弁護できない私たちの父祖を否定し冒涜することになるからです。
 第二次大戦やそれ以前の歴史を外交に持ち出す国は私の知る限りこの三国以外、世界中のどこにもありません。半世紀以上も前のことを持ち出しても普通は手を広げ肩をすくめられるだけで、どんな効果ももたらさないからです。だからインド、ミャンマー、シンガポールなどはイギリスに「歴史認識」を迫りませんし、ベトナムはフランスに「歴史認識」を問いません。独ソにとことん虐げられたポーランドだって同じです。世界中でそれを囗にするのは、1982年以降の中国、韓国、北朝鮮だけなのです。日本が謝罪と譲歩で応える世界唯一の国だからです。1990年以降はほとんど毎年、政府が謝罪し続けています。それにより関係は改善するどころかむしろ悪化しています。
 近隣諸国条項とは平たく言うと「中国、韓国、北朝鮮を刺激しかねない叙述はいけない」という政治的なものです。子供の学ぶ歴史教科書において、歴史的客観性より「事を荒立てない」を優先するという滑稽な代物なのです。ただし宮沢官房長官が血迷った結果、と一方的に片付ける訳にもいきません。その後30年近くもこの条項が存続しているという事実は、国民の多くがこれに違和感を持っていないことを意味するからです。だから問題は深刻なのです。
 
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