日本人の誇り
日本人の覚醒と奮起を期待したい 
藤原正彦・著 文春新書
 

 1千万人を救うために20万人を

 アメリカの言い分は「ポツダム宣言を承諾せず徹底抗戦を続ける日本に降伏を促し、犠牲者が米兵だけで百力、両国合わせて1千万にも上るだろう本土上陸作戦を避けるために仕方なかった」というものです。1千万を救うために20万を殺したという理屈です。
 私かこれまで原爆について話したことのある何人かのアメリカ人もみな類似のことを言っていました。2009年にアメリカのある大学の行なった世論調査では61%のアメリカ人が「原爆投下は正しかった」と答えたそうです。65年が経ってもこうなのです。
 驚きです。時系列で述べてみましょう。
 まず1944年9月のルーズベルトとチャーチルの会談で、開発中の原爆を日本に投下することが決定されました。ドイツはなぜか対象から外されたのです。翌1945年の5月には、ルーズベルト大統領の指示で編成され秘密の投下訓練をユタ州で行っていた実行部隊が、サイパン島のそばのテニアン島に移動しました。同年7月16日、米英ソによるポツダム会談の始まる前日、ルーズベルト大統領の後継者であるトルーマン大統領のもとにニューメキシコでの原爆実験成功のニュースが伝えられ、大統領は大喜びしました。そのたった9日後の7月25日には、トルーマン大統領の承認を得て陸軍参謀総長代理のトーマス・ハンディ大将から「8月3日以降、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに原爆投下をせよ」との命令が下されました。そして米英中(後にソ連が加わる)によるポツダム宣言が発表されたのはその翌日の26日です。鈴木貫太郎首相がそれを「無視する」
と発表したのはポツダム宣言の2日後の28日でした。要するに、「日本がポツダム宣言を拒否したから」どころか、ポツダム宣言の発表以前に原爆投下命令は下されていたのです。
 またトルーマン大統領は、日本が中立条約を結んでいるソ連を通し終戦へ向けた和平工作をしていることを、スターリンから耳にしていました。暗号解読によっても知っていました。国体の維持、つまり天皇の地位さえ約束すれば疲弊し切った日本は降伏する、ということを元駐日大使で知日派のグルー国務次官から5月の段階で聞いてもいました。日本の徹底抗戦によりこれこれの犠牲が出るだろう、というのも嘘なのです。
 それではなぜ実験で成功したばかりの原爆を大慌てで落とすことになったのでしょうか。
 ルーズベルトの急死により1945年4月に後を継いだトルーマンは、共産主義に理解をもっていた前任者と違い大の共産主義嫌いでした。彼はその年の2月に米英ソ間で行なわれたヤルタ会談での秘密協定を初めて知りびっくりしたのです。ドイツ降伏後3ヵ月以内にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦すること、その代りに満州にある日本の権益、南樺太、千島列島はソ連に引き渡す、というものです。この通りになったらソ連は極東および占領後の日本に大きな影響を及ぼすことになります。ぜひソ連の参戦前に日
本を降伏させねばならない、と考えました。実際、ドイツ降伏(1945年5月8日)後のヨーロッパでは、ソ連が東ヨーロッパで共産党政権を次々に作るなど勢力を急速に拡大していました。そのためにはできるだけ早期の原爆投下が望ましい。
 さらに戦後の米ソの覇権争いを予想した大統領やバーンズ国務長官は、原爆の恐るべき威力を示しソ連を威嚇しておくことが重要とも考えました。何も都市の上に落とさなくても威力を示すことができる、とアインシュタインを初めとする科学者達が反対しました。アイゼンハウアー将軍さえ7月20日に、トルーマン大統領やスティムソン陸軍長官に「日本はすでに敗北しており原爆はまったく不必要」と進言していました。大統領は聞く耳を持ちませんでした。ドイツ降伏は5月8日ですから3ヵ月目は目前に迫っています。「なるべく早く投下しなくては」とトルーマンは焦りました。この新型爆弾の現実の威力を知りたいとも強く思っていました。ところが、日本がポツダム宣言をあっさり受諾してしまえば投下のチャンスはまったくなくなります。そこで日本がすぐに受諾しないよう、当初はポツダム宣言の草案にあった「国体維持」の言葉をわざわざ削除して投下準備のための時間をかせいたのです。
 見事にトルーマンのぎりぎりの曲芸は成功しました。8月の6日と9日に原爆を落とすことができ、同8日にソ連が参戦し、14日には日本がポツダム宣言を受諾しました。その後になってスターリンは樺太と千島を占領し、さらには北海道北半分への進攻まで要求しました。トルーマンはこれを拒絶し、朝鮮半島の38度線以南への進攻も阻止したのです。核の威力でした。
 要するに原爆投下は、専らその実際の威力実験および終戦後のソ連との覇権争いを念頭に置いたものだったのです。怒りを通り越して嘆息の出るような話です。
 
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