日本人の誇り
日本人の覚醒と奮起を期待したい 
藤原正彦・著 文春新書
 

 宣伝による洗脳が始まった

 戦争責任を日本の軍部と軍国主義者へ作為的に転嫁するため、すなわち自らの行為の正否を問われないようにするためアメリカは、早くも真珠湾攻撃と同じ日にちの1945年12月8日より「太平洋戦争史」なる宣伝文書を作成し日本の各日刊紙に連載を始めました。翌1月には学校における歴史、地理、修身の授業を中止させ、4月からは歴史教科書としてこの「太平洋戦争史」を使わせました。
 さて、日本の降伏は無条件降伏だったのでしょうか。日本はポツダム宣言という条件付き降伏をしたのであって、無条件降伏をしたのではありません。だからこそポツダム宣言の第5条に「吾等の条件は左の如し」と書いてあり、以下の第6条から第13条まで降伏の条件が記されているのです。例えば、第10条には「……言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立せらるべし」とあり、最後の第13条は「全日本国軍隊の無条件降伏」です。日本国政府は条件降伏、軍隊は無条件降伏、というのが正しい内容であり、すべて無条件降伏のドイツとはまったく違います。
 にもかかわらずアメリカはポツダム宣言をふみにじり、あたかも全面無条件降伏をしたかのごとく傍若無人の振舞いをしました。余りにもその傲慢が堂に入っていたので日本人までが皆、「日本はアメリカに無条件降伏をした」と勘違いしてしまいました。
 1948年(昭和23年)頃、私の住んでいた中央気象台官舎から歩いて10分ほどの、御茶ノ水駅のそばの橋で、酔っ払った米兵達が通りがかりの日本人を次々に神川川へ放り投げるという事件が起こりました。ところがそこを通りかかった気象台勤務の柔道四段の猛者がその光景を見て憤慨し、米兵を片端から川の中へ投げ捨てたのです。
 父が夕食時にそんな話を顔を真赤にして話した時、まだ幼なかった私は「すごいなあ、強いなあ」と大喜びで手を叩きました。すると母が「でも日本はアメリカに無条件降伏したんだから何をされても文句は言えないんだよ」と言ったのです。父も私も口を尖らせたままつぐんでしまいました。父も無条件降伏と思っていたのでしょう。私も後に学校でそう習いました。
 無条件降伏なら何でもありなので、彼等はしたいことは何でもしました。人間を作る教育に手をつっこむということまで行いました。つっこむに止まらず、メディアを利用しての洗脳教育にまで取り組んだのです。
 「太平洋戦争史」は教科書として使われたばかりか、NHKラジオでも「真相はこうだ」として、1945年12月9日から10週間にわたり毎日曜の夜8時から30分というゴールデンタイムに、ラジオの他に何の娯楽もない国民に向かって放送されました。しかも番組の前後に、並木路子や淡谷のり子といった人気歌手による歌番組や徳川夢声の「千夜一夜譚」などを配し聴取率を高めることまでしました。
 敗戦から4カ月足らずで人々が混乱と虚脱の中、空きっ腹をいやすため闇米を買い出しに出かけていた頃です。私の父も窓から出入りするような満員の買出し電車に乗って千葉へイモを求めに行ったりしました。
「真相はこうだ」に続き「真相箱」が同じ時間帯で10カ月近く放送されました。いかにもNHKの自主製作のように見せかけ、GHQ製作であることを隠しました。内容は徹頭徹尾、満州事変から終戦までの日本軍国主義者の欺瞞、国民への背信、とりわけ南京事件やバターン死の行進など日本軍の残虐をあることないこと、これでもかこれでもかと繰り返しました。
 バターン死の行進とは、1942年4月に、フィリピン進攻作戦で捕虜となった米比軍兵士8万人を、炎天下、食料や水も十分に与えないまま60キロ歩かせ1万人近い死者を出した事件です。60キロというのは大した距離ではありませんが、日本軍には使用できるトラックもなく、予想以上の数だったこともあり歩かせることになったのです。何力月も山にこもっていた末に降伏した米兵は、降伏した時点で疲弊困憊だったうえ熱帯病のマラリア、デング熱、赤痢などにかかっている者も多くいました。死者の多くはマラリア感染者と言われています。日本軍にも食料がなかったのです。虐待の意図はありませんでしたが、結果として捕虜多数が死んだのは、日本の責任に違いはありません。
 そして原爆投下や本土無差別爆撃の罪を日本軍国主義者に転嫁し、人道的でやさしいアメリカが善良な日本国民を軍国主義者の魔の手から救い出しにやって来たのだと吹聴したのです。
 初めの頃は、ラジオを聴いた多くの国民が反感を覚えましたが、毎週続くうちに少しずつ「もしかしたら本当かも知れない」と思うようになりました。「悪いのは軍部や軍国主義者であり、善良な国民は欺されていただけ」という手法や、真実に嘘を効果的に混ぜるという巧妙な手法をとったからです。嘘であると自信を持って言える一般市民は当然ながらほとんどいませんし、嘘と証言できる当事者も意見を公表することができませんでした。先述のように言論の自由がなかったからです。そもそも、真実を知っている軍や政府の関係者は、敗戦のショックと、祖国防衛という責任を果たせなかったことによる悔恨、失望、落胆から立直れず、今さら申し開きをしてどうなるものでもないと思い黙っていました。
 
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