日本人の誇り
日本人の覚醒と奮起を期待したい 
藤原正彦・著 文春新書
 

 公職追放は25万人以上

 罪意識扶植計画に協力的でない人間は公職追放されたり圧力を加えられたりしました。公職追放とは政府や民間企業の要職につくことを禁止することを意味します。GHQは早々と1946年(昭和21年)の1月には公職追放令を作り、戦争犯罪人、戦争協力者、大政翼賛会などの関係者が追放され、翌年にはさらに、戦前、戦中の有力企業の幹部なども対象になりました。
「お天気博士」として国民に親しまれていた私の大伯父の藤原咲平は戦前から東大の物理学教授や中央気象台長をしておりましたが、1947年に公職追放になりました。
 気象は軍事作戦に密接に関係します。大伯父は日本人として全力をあげて軍部に協力しました。アメリカ本土を世界で初めて爆撃することとなった風船爆弾の研究まで積極的にしました。千葉や茨城の太平洋岸で上空に放たれた直径10メートルの爆弾付き風船は、ジェット気流に乗って数日後に米本土に達し、そこで落下するように設計されていました。大伯父はこれがジェット気流のある高度1万メートルを保って飛ぶように工夫したのです。風船爆弾は1万個近く作られ、そのうちの一割ほどが米本土に到達したようです。向うでは原因不明の山火事や人間の殺傷というケースまで発生しましたから、米政府はパニックを防ぐため極秘にしたほどです。
 先述の鳩山一郎、石橋湛山も追放されました。何しろ衆議院議員の8割が追放され、政財界、言論界の有力者の大半が消えたばかりか、追われた者は合計25万人以上にまで達しました。この結果、日本の中枢を占めていた保守層が去り一気に若返りましたが、その穴を埋めた者は必然的に左翼系やそのシンパが多くなりました。特に学校などでは顕著でした。
 罪意識扶植計画に協力することは就職口を得ることであり、生き延びることであり、出世につながることとなったのです。この意識は瞬く間に日本中に広がりました。
 大伯父は追放され台長宿舎を出されましたが、研究への意欲はまだ強く、中央気象台内で月1回行なわれるセミナーに出席していました。こういう時は必らず官舎内の私の家に立寄り、母、4歳の私、2歳の妹の4人で昼御飯をとりました。他に食べる場所さえなかったのです。母に面倒をかけまいと咲平はいつもアルマイトの弁当箱を持ってきましたが、決まって麦入り飯の上にはバターが塗られ、軟く煮た何かの骨がその上にのっていました。それに砂糖をまぶし母の作った味噌汁とともに食べていました。4歳の私が不思議そうに「そんなもの美味しいの」と問うと「美味しいし栄養もあるんだよ」と言って頭をなでてくれました。しばしば私に「1日に2つずつ米粒を食べるネズミは1年でいくつ食べるか」などと算数の問題を出してくれました。解いてほめられるのがうれしくて、私はいつも大伯父の来るのが楽しみでした。
 でも長く続きませんでした。気象台の幹部の中に、「気象台の大功労者とはいえ、公職追放された人間が気象台に出入りしていることがGHQに知られたらどんな制裁を受けるか分かったものではない」という意見が出てきたからです。空気を読んだ咲平は1年ほどで出席をしなくなりました。研究の道も断たれた大伯父は失意の中で胃ガンを患い、1950年に亡くなりました。
 話が脇道にそれましたが、申し上げたかったのは、気象台の人間ばかりでなく、日本中の大多数の人間が公職追放令が出て1年もたたないうちに、GHQの意向に逆らわないよう自主的に努力し始めたということです。画期的成功を収めた「罪意識扶植計画」は、7年近い占領が終り、公職追放令が廃止された後でも日本人に定着したままとなりました。洗脳とは真に恐るべきもので、最初は生存のため仕方なく罪意識扶植計画に協力していたのが、次第にそれに疑いをはさまない姿勢こそが戦争への懺悔、良心と思いこむようになったのです。疑いをはさむ人は軍国主義者とか右翼というレッテルが貼られることになりました。そしてこの史観は、モスクワのコミンテルン(ソ連共産党配下の国際組織)のものでもありましたから、その影響下にあった日教組がそのまま教育の場で実践しました。
 そのためこの史観は今日に至るまで脈々と、多くの善良な日本人の精神の奥深くに、気づかぬうちに根を張っているのです。

 GHQが種をまき、日教組が大きく育てた「国家自己崩壊システム」は、今もなお機能しています。
 特に教育界、歴史学界、マスコミというGHQによる締め付けのもっとも厳しかった部分においてです。歴史教科書を書く人、歴史を教える人、歴史を国民に広める人がそういった部署の本流にいますから、このシステムは容易には壊れないのです。東京裁判への批判、新憲法の批判、検閲により言論の自由を奪い洗脳を進めたアメリカへの批判、愛国心の擁護、原爆や無差別爆撃による市民大量虐殺への批判、などは、すべて正当でありながら、公に語られるのは稀です。無論、教科書に載ることもありません。歴史学を専攻する知人は「そういった批判を口にする者が歴史学科で就職を得ることは今でも難しい」と語っています。
 アメリカの言論操作はついに「歴史的事実」になったのです。だから批判が最大メディアであるテレビで語られることもほとんどありません。誰もが軍国主義者とか良心のない人とは思われたくないからです。公然たる批判は慎む、というのは属国のマナーでもあるのでしょう。
 
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