新装版
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第1章 魂の生活を | ||
4.生きているうちに為すべきこと | ||
生きていることの意味 自殺者のこうした状況が、死というものの後に私達が直面する迷いの実態をよく示していると思うのですが、私は、こうしたことを書物などで学んだ知識としてお話し申し上げているのではありません。 霊視の中で、死者たちから映像的な説明を受け、そこで教えられたことを素直にわかり易くお伝えしているに過ぎません。 私が、鉄道の踏切の真ん中に立っていますと、彼方から列車が疾走して来ます。 「あ! このままでは轢かれて死んでしまうぞ!」 と、思っているうちにとうとう列車が来て私にぶつかります。 ところが、衝撃もなければ痛くもない。私は平気でズタズタと踏切を渡って歩いて行くのです。 この霊視の場合は、死者が自分の死は自殺であり、その方法は、踏切自殺であったことを表現しているのですが、もう一つ、興味ある体験を私にさせてくれたことになります。 列車にぶつかって痛くも何ともなかったことです。これは、痛かったり破壊されたりすべき肉体を既に失って、魂・意識体だけになっている死者だからのことです。魂だけで状況を再演して見せてくれれば、なるほどこうなる訳です。 この自殺者も、死ねばすべて無になる――と思って自殺したのでしょうが、無になったのは肉体だけで、魂の方は自殺をしようと思うに至った苦しみをそのまま抱いて、ちゃんと生前と変わることなく生きているのに気付いてびっくりしているのです。 そして、この苦しみ悶える「悪い想い」が、そのまま子や孫へと頼って行って、「その想いのまま憑依」することを思うと、少なくとも自殺という行為は何としても防ぎとめたいと思います。 とにかく、ヒトという生物学的物質が、病んだり老いたり傷ついたりして死を迎えても、魂だけは変わることなく生きているのだということを、あらためて、しっかりと心にとめていただきたいのです。 その魂が、そもそもの世界へ早く立ち帰って成佛すればいいのですが、反対に、想いだけでうろつく世界は、きびしい反省の場で、霊視の中での訴えをみていますと、さきほども触れましたように相当苦しい所のようです。地獄・極楽とか、一生を映し出す鏡と閻魔さまの説話はこの辺のことを昔から説いているものなのでしょう。 父母への感謝という人間としての最低の心さえ忘れて、年回忌の法要さえおろそかにしていたこと、人の道にはずれた思い上がった所業をしていたことなどを詫びようとして、それはそれは苦しい想いにさいなまれているようです。 その挙句に、自分が魂だけになっていることに気付いていないために、この世の縁者に想いを送って、自分に代わって、自分の想いを果たしてくれと訴えて来ますが、それが霊障です。 苦しい意識の想いが、その苦しみのまま子孫に憑依し、子孫を苦しめるのです。 とにかく人間は生きている間は、肉体のことばかりに注意をはらって、もう一つの大切な魂のことを忘れ切っています。肉体が満足しない状況、それは、ああしたいこうしたいと脳が思う感情も含めてのことなのですが、そうした不満の気持ちが起きると、それを充足させるために、欲望のおもむくまま行動してしまいます。 偉い人になりたい、金持ちになりたいというのも、つきつめれば、物質的充足を追求する肉体的感情であって、人間はほとんどこのバネで動いているといっても過言ではありません。何もかも肉体中心です。魂のことなど、まるで無きが如き生活です。 その生活を続けた挙句に、死んで魂だけになった時、どれほどあわてふためいた想いになるか、容易に想像できるではありませんか。 子孫が自分を供養してくれて、やっと成佛への道がひらけるような、そんな情けない死者には絶対になりたくないものです。 では、そうならないために、生きている今からできることはないのでしょうか。 一言のもとにお答えするならば、それは、自分の魂を意識し、それを磨く生活です。 「魂の生活」を今日から始めることです。 人間若い時は、その肉体が活発で、なかなか魂のことに想いがめぐりません。 日常的な肉体中心の暮らしの中では、地位・名誉・財産という、言い換えれば食・性・物の欲望充足と同じものが、まことにきらびやかな目標に見えます。それ以外の価値があるとはとても考えられません。その目標を目指してひたすらに努力をします。 空転・挫折にもめげずひたすら邁進するのです。 勿論、そうした無駄とも見える挫折や空転も、欲望だけでは結局成就できない不思議さを知るために、人間が必ず通らされる修行なのではないでしょうか。 かりに幸運とか努力とかいわれるものによって、地位・名誉・財産の最上限のものを手にしたとしても、家族の愛を失い、病いに苦しむと、がらがらと音を立てて崩れるように、それまでの目標を失ってしまいます。 人間究極の、真の幸福とは、一体何なのだろうと必ず疑問を持つにいたります。そんな状況になって、ようやく半分程気がついた程度でしょうか。 宇宙大自然の、永遠の営みの中に生き続けているのは、肉体ではない魂・意識体です。 肉体というものは、あらゆる消滅の危険をかいくぐって不安定に生き、そのことで何かを学ばされるよう御佛(かみ)によって与えられた道具に過ぎないのです。 このことに、年齢にかかわらず早く気がついて下さい。 肉体中心の生活を捨てて、永遠の魂を磨くために肉体を使って下さい。 これを「魂の生活」といいます。 |
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