新装版
死者は生きている
萩原玄明・著 ハート出版 
第2章 愛こそ供養の心
1.死者への優しい思いやり

 供養は誰がするか

 何故どうしてうちの子が――事故や災難に遭った時、何万分の一の確率の不幸に、どうして自分がという想いがつきまとうに違いありません。
 他人がならない病気に何故自分が、うちの者がなってしまったのか、そして、その病気がどういう原因によるどんな病気なのか医者にもわからないとは一体どういう訳だ――
 何故わが家には争いごとが絶えないのだろう、どうして選りに選ってうちの会社が倒産するんだ――
 こうしたどこへ向かって叫んでよいのかわからない悲痛な想いは、体験したことのない人にはとても理解してもらえるものではありません。
 なまじっかな学歴があったり、そこそこの地位があったりする男性に多いのですが、これほどに不思議な形をとって、通常の怪我や病気ではなく、「これは霊障なんだよ」と示している死者の思惑に反し、ただただ自分の浅知恵で理屈をつけて「そうではない」と思いたがる人がいます。
 奥さんが子供が苦しみ抜いているのに、まだ脱出に有効な学問があるように思っていて、とても死者からの訴えかけだとは気付いてくれないのです。そういう人だと、かりに気付いたところで、浮かばれていない死者に詫び、思いやりの心で供養することなどとてもできはしません。
 そして結果、この家は次第に不幸のどん底へと向かってころげ落ちて行くことになります。
 精神病なども、(最後の章で詳述)まるでこの病気が遺伝のように遠い家系の中から幾人も伝わって来ていることが多いのですが、どうしてわが家には精神病が多いのだろうと、代々嘆くだけで、根源となっている哀れな死者はどなたなのかと、調べ始める入口にさえ立つこともなく年月をいたずらに経過しています。
 最初の人が病苦の想いで次の人間に憑依して精神病にしてしまうと、今度はその人が次へと、次々に病状を増幅させ二乗三乗の障りとなって、人数と病状の程度を増大させて行くことになってしまうのですが、ここでも霊障と気付くまでに随分と遠廻りや足踏みをさせられている例ばかり目立ちます。
 反対に、苦しみにもがくうちに、人間ごときものの理屈ではどうにもならない何かがあることにようやく気がつく人がいます。
 その人には、幸いなことに素直な心が芽生えます。素直な心が生まれれば、御佛(かみ)とも死者とも意識を通わす下地ができますし、そのお導きで私のような者とのご縁がつながります。
 そして、今受けている苦しみが死者の想いに発していることを知ります。つまり、霊障なのだと気が付くことができるのです。
 ならば、この世に生きる人間から一体何をどうしたら、この死者たちからの訴求に対応してあげられるのでしょうか。
 勿論、言うまでもなく供養です。
 しかし、この供養というものは、前章にも述べましたように、死者を偲び、死者の心をおもんぱかって、
「放っておいてごめんなさい。つらかったでしょう」
という、なみなみならぬ思いやりが先ず土台として必要ですが、こうした心は、そう簡単に作れるものではありません。
 何故なら、思いやりの気持ちよりも、死者からの訴えかけを、「こわい」「おそろしい」と思ってしまう人が歴史的にも現実的にも多いからです。
 両親の魂に向かって優しく合掌している人でありながら、霊障をもたらしている死者となると、それが祖父であろうが伯父であろうがもう恐ろしいと考える妙な習慣が根強くあって、そのために、一般の人になり替わって死者と対座する専門家が必要でした。
 勿論、現在でも存在していて、そうした専門家に一切を「頼んで」しまって安心しようとする人々もまた数多くおいでです。
 
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