新装版
死者は生きている
萩原玄明・著 ハート出版 
第2章 愛こそ供養の心
1.死者への優しい思いやり

 死者へのひどい仕打ち

 祈祷や、いわゆる「おはらい」がそれです。
 言うまでもなく祈祷というのは、一般の人ではとてもできない厳しい修行をした人の、特別の力を借りて、霊に祈ってお願いをすることを言っています。
 何をお願いするのかといえば、浮かばれていない霊に向かって、どうぞ祟りのような悪い恐ろしいことをしないで下さい――ということでしょう。人間らしい素朴すぎるほどのお願いであって、願うことの気持ちもよくわかるのですが、お願いされたほうの死者が、悲しい顔をして困っているのが目に見えるようです。
 祟って苦しめてやろうなどという恐ろしい考えも、また、そんなことをする力も全く死者にはありません。死者が人間より上位に君臨する強いパワーの持ち主で、それが怒って人間を苦しめに来ているわけでもありません。この世の人間とそっくり同じ人間で、むしろ助けてくれとすがって来るだけ人間より弱い立場の人達なのです。
 そういう死者に「何もするな」と願うだけでは、あまりにも死者が可哀想に思えてなりません。
 祈る人のパワーがまるで無いとすれば論外ですが、修行を積んだ人のご祈祷によって、障りの現象が停止あるいは軽減することを全く否定はできません。が、それでも、しばらく日数が経過すると再びもとの状態に戻ってしまい、完全な解決にはならないようです。
 私も修験道と深い関わりのある宗派の僧として、また、不動尊にお仕えした父や兄の遺志を継ぐものとして、ひと通りの修行を経験してまいりましたが、私は祈祷とか祈るとかいう行為は、御佛(かみ)に向かってなされるべきものと考えております。
 死者を、そのまま御佛(かみ)と同じようなものと混同したり錯覚したりしているところに間違いがあります。御佛(かみ)こそ偉大であり慈悲深い存在であり、そして深遠な力の持ち主ですから、無力な人間が御佛(かみ)の前にひれ伏してひたすら祈り願うというのは、人間として素直な正しい行為ですが、死者は御佛(かみ)ではありません。
 前に述べて来ましたように、死者は哀れな状態にある人間の意識体に過ぎません。この人達には、祈ったりお願いしたりするのではなく、偲んで思いやる愛の心の供養だけが通い合える唯一の道と、私は確信しています。
 もう一つ、違う角度でこの祈祷についてつけ加えたいことがあります。         
 それは、祈祷する人が修める行についてのことです。更に細かく言うならば、行をする目的は何かということです。
 人間でありながら、人間以上の、御佛(かみ)に近い不思議な力を授かろうという気持ちでの行ならば、それは明らかに目的において誤りと言わなければなりません。
 こんな目的で、我が肉体を痛めつけ、その苦痛に耐えてみたところで、所詮は自分のためにする自己中心の行でしかありません。
 現在、私も御佛(かみ)に祈る自分を作るために私なりの行は続けていますが、私か過去にして来た様々な肉体行を、今、わが魂の内底からきびしく反省し、わが身を痛めつけるのは、ただひとつ、世のため人のために為すべきことだと考えております。
 ひとのために、この生きた自分の目を捧げ、自分は盲目になってもよいと、はっきりと決心することができた貴重にして、かつ稀有な体験を通じ、私はこのことを御佛(かみ)から教えていただけたのです。
 世のため人のためという自己を捨てた意識でなければ、御佛(かみ)に何ひとつ祈れないことを知りました。
 また、この世で人間として負わされるさまざまな苦労こそが「行(ぎょう)」であり、その意味では特に祈祷を専門とする人でなくても、一般の人でもこの心を作ることさえできれば、充分に御佛(かみ)に祈れるはずなのです。
 それはそれとして、死者は御佛(かみ)ではありません。
 死者には愛です。祈祷ではありません。
 
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