新装版
死者は生きている
萩原玄明・著 ハート出版 
第7章 真の供養を問う
3.先祖供養は宗教以前の当たり前のこと

 肩肘張ってどうする

 子供の非行・登校拒否・家庭内暴力・事故・自殺――
 愛するかけがえのない子供が何故こんなことに――世間も、学校も、国も、自分の子供を明るく正しく導いてくれるべきなのに何もしてくれない。自分たち家族は、経済的にも人並みに暮らして来たし、世間的には幸福の部類に入ると思っていた。それが、急にこんな不幸に襲われて――と、私の寺へ初めて訪ねてこられる人は、大抵こんな風に、あわてふためいて不幸を不思議がっておいでです。
 もう読者の皆さんはお気付きのように、先ず第一に、子供のことに責任をもつのは、自分たち親だけではなく、学校にも社会にも国にも責任があると思っているのが大きな過ちです。
 次に、何者かが自分に敵対して害を与えているという被害者意識ばかりで、自分に対する反省が一つもない――これが、全く困ったことです。
 これでは、子供が悪くなったのは、霊障などという次元の高いものではなく、単なる「不良化」以外の何でもありません。
 親の生活態度に問題があるので、それで、子供が駄目になっただけのことです。
 明らかにその種のことと判断される場合は、私は歯に衣着せずに「単なる不良」と宣告してお帰りいただいておりますが、やはり、そうではなく霊障によるものの場合も、親の物の考え方に、そもそもの霊障の原因があるというのがほとんどです。
 子供へ来た障りは、親への死者からの通信です。どうしても気付いてほしいので最愛の子供を材料にされるのです。
 今までただの一度も手を合わせたことがない先亡の縁者にお詫びしなければ――と、私か心の持ち方についてのお話をしても、まるで納得できない顔をしています。
「誰にだってお詫びしなければならないようなことは一つもない。誰のお世話にもならず自力で今日の生活を築いたのに、一体、誰に向かって、何に対して感謝しろというのだ」
 自分中心に回っていた世界が、今、崩れ出してしまってうろたえているというのに、まだこんな考えでいます。
 生きて、働いて稼いで、家族ができて、お金もまあまあできて――威張るほどのことでしょうか。こんなことは犬猫ならぬ人間なら、千人が千人、万人が万人やることで特別に鼻を高くするほどのことではありません。
 人間は、そんなことのほかにもっと大事なことをするために生まれて来ているのです。
 その大事なことを何ひとつしないで幸福だけ御佛(かみ)から頂戴しようという姿勢でいるから、それで苦しみを受けることになるのです。
 大事なことは、言うまでもなく、先祖や親をはじめ亡くなった方々への追慕です。
 自分をこの世に出してくれた両親や先祖のことを、優しく偲ぶことなど、本当は、家族を作ったり稼いだりすることより、もっと基本の、人間として当たり前のことではありませんか。
 こんなことは宗教でも何でもありません。宗教以前の常識的な人の道にすぎません。
 こんな簡単な人の道にも気がつかずに、どうして今、人間の幸福が手に入らないと言ってどたばたするのですか。
 
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