新装版
死者は生きている
萩原玄明・著 ハート出版 
第7章 真の供養を問う
3.先祖供養は宗教以前の当たり前のこと

 苦しみは学ぶためにある

 それでいて、神や佛にはよく参拝参詣する人が多いのですが、それは、現世でのよりよき幸せを下さるもの、困った時に救って下さるものとして、自分本位に利用させてもらおうという了簡によるものです。
 神も佛も実在して、私達のすべてを天空から、そして身近から見ていらっしゃいますが、我々人間が都合よくただ甘えている心とは距たりが大きすぎて、期待するようなご利益は先ず頂けません。
 心の底から救われる道を求めるなら、人間として都合のいい自分本位の気持ちをすべて捨てて、全身を神佛の前に投げ出すことです。
 信ずることです。
 理屈で考えて理解しようとしたり、疑いの心があったりしていては、神佛や死者の魂がなさることを絶対に見ることも体験することもできません。
 宗教とは、その文字が示すように、宗――即ち「物事の根本」を教えるもので、一時しのぎのご利益を求めるものではありません。
 私のところへおいでになっても、拝めば助かるとか、その程度のお気持ちでいらっしゃる間は、まだ私とご縁を結ばせていただくわけには参らないのです。私か偉そうに言っているのではありません。御佛(かみ)や死者の魂が、一つも作動して下さらないのです。
 何故か不思議に交通機関その他のトラブルが起きたり、道に迷ったりして私の寺へ遂に到着できないという場合さえあります。
 どうぞ、物事の根本を忘れていないかというきびしい反省を常に心がけて下さい。人間として大切なことは、自分の位置を、ちょっと中心からはずせば、すぐに明瞭に見えてくることばかりです。

 私の寺では毎月第三日曜日に月例供養祭を施行しております。
 お一人ずつの供養が終わって成佛なさった方々を、命日に当たる日のその月に、あらためて偲んで冥福を祈るためのお祭りです。
 正しい宗教としての本当の供養は、こうして、毎年毎年、年に一度は必ず供養祭という形で実施し、それを一生涯続けることであります。
 供養は、霊障にあわてて、とにかく成佛して下さいとばかりに行なうものではなく、日常的な生活習慣の中に入ってしまうべきものなのです。
 月例祭に毎月出席し、これまでに供養の済んだ方々を、毎月毎月あらためて思い出しつつ、霊障のおそれもなく平穏な毎日を送っていらっしゃるのでしょう、とにかく、この月例祭へ集まっておいでのたくさんの方々の目を見ますと実に明るいのです。
 いつも晴々としていらっしゃいます。
 自分の願いごとなどより何より、ご先祖や先亡の方々だと、ひたすら一生懸命にやって来た人達ならではの表情ばかりです。
 「お早よう」「暑いね」「寒いね」「おいしいよ」等々亡くなった方々に声をかけながら、常に御佛(かみ)と一緒に生活することができていると申せましょう。
 が、こうした人達も、かつては、いつも自分のために世間があると考えていたために、その故に襲って来た災難・苦痛に対し、ただ恐れおののき、人を怨み、そねみ、悲しむという悪い想いの洪水の中に溺れていた日もあったわけです。
 供養を重ねて行く間に、人間として最も大切なものが何かをさとって、今は、先祖と一緒になって、安らぎの明るい想いに溢れた家庭の中で生活していらっしゃいます。
 が、しかし、私はもっともっと皆さんに要求しています。それは、肉体のある今から、「魂の生活」をはじめましょうということです。
 今、あなたが苦しむのも、これから先に苦しむのも、ただ、早いか遅いかの違いだけで、苦しみは必ず誰でも受けることです。
 その苦しみには原因があり、人間として生まれた以上、どうしても学ばなければならないことがあります。
 今、苦しければ、今がその勉強のための苦しみの時なのです。
 やがて本源的な生命の勉強、魂の生活へと進むことになり、そこまで到達してはじめて人間として完成に近い、幸福そのものの生活にひたることができるのです。
 そして、その道は、そんなに遠くありません。
 あなたの心次第です。
 
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