新装版
死者は生きている
萩原玄明・著 ハート出版 
第9章 死者は何を想い続けているか
2.あなたは先祖に殺される

 先祖とどうつきあうか

 あなたは今のまま何もしないでいると、先祖に殺されてしまうぞ――こんな言い方は、本能的に厭な感じがします。
 厭というどころの話ではない。本来、崇敬すべき先祖を、まるで鬼畜や魔物の如く敵視するとは何事か――先祖に感謝することを教えながら、その先祖をおそろしいもののように言うとは被害妄想も甚だしい――
 まだまだいくらでも「先祖に殺されてしまう」という表現に対しては、怒りを伴っての反論が可能だと思います。
 しかし私は、どう解釈されようが、それでもこの際、敢えてこのような言い方をしたいのです。
 そうでなければ、いつまでたっても先祖供養の本当の大切さに、世の人々が気付いて下さらないからです。
 この本でここまでの間にいろいろ申し上げて来ましたが、それらのすべてをまとめる意味で、各章の内容との重複を承知の上、先祖・死者について再考してみたいと思います。
 長い間、美徳とされて来た先祖崇拝は、それはそれで確かに立派な正しいことなのですが、先祖をあがめたてまつることにのみ力点が置かれて、その中に、あらゆる矛盾を包みこんで来てしまったように思います。
 忠ならんと欲すれば孝ならず――とは、言ってみれば、人間それぞれの信条と、親への盲目的な服従とは、所詮あい容れないものだということです。
 長い封建秩序の中では、先祖を崇拝し、親に服従することが、すべてに優先して正しい生き方で美しい徳であるとしなければ、すぐに骨肉相食む争いになってしまったのです。
 そこで、この先祖崇拝思想が連綿と続いて来たわけですが、さて、「家」という日本古来の考え方の中にあって、本当に、先祖や親は、ただ、あがめたてまつる存在だったのでしょうか。
 崇拝という言葉の中に、私は愛を感しません。様々な不合理を、美徳の中に封じこめ、自分の心までごまかしながら、家系の平和と繁栄を企図した不自然な、利己的な、そして、人間らしくないものが匂います。
 親や先祖は、敬愛するものであって、もっと親しく、懐かしい想いで接するのが本当ではないでしょうか。
 あがめたてまつる対象は御佛(かみ)であり、先祖はすべて御佛(かみ)ならぬ人間です。
 人間には、人間らしい愛の心で、常に身辺に生きて在るが如く偲び、そして、日常の食物を供え、話しかけてあげるのが、自然なおつき合いの形です。
 言葉の上では、崇拝と敬愛と、たいした違いもないようですが、意味あいには、大きな隔たりがあるのです。
 
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