歴史から消された
日本人の美徳 
 黄文雄・著 青春出版社 2004年刊

 日本人の道徳の軸は「誠」にある

 「誠」は日本人の倫理のコアだと見られることが多い。外から見た日本人は、一言でいえば、誠の民族、つまり正直な民族、場合によってはバカが付くほど正直な人々である。それは多分、和辻哲郎がいう、島という「風土」から来るものであろうか。
 大陸や半島の民族は、生存競争が激し過ぎて、「誠」では生きていかれないのである。「誠」よりも、まず親は子に「人に騙されるな」と教え、そうした処世訓が先に来るのだ。誠実であれという代わりに、処世訓として「孝」や「仁」や「礼」をうるさくいうのである。
 良心のある人間にとっては、生きにくい社会である。「誠」よりも「詐」が生きる術となり、性ともなってしまうのである。
 いくら才能があっても、それを嫉妬する人間がいると芽を摘み取られてしまうので、能ある鷹は爪を隠すなどという奥ゆかしさからではなく、自分を守るために常にバカを装うという「詐」術を使うことになるのだ。老子のいう「大智は愚の如し」とは、その極致を指しているものだろう。
 誠というものには、自分自身に対する誠と、他人に対する誠があり、さらに「集団に対する誠実」、「事に対する誠実」も要求される。これはフェアー精神に通じるもので、キリスト教国家でも守るべき規範である。
 しかし日本の神はキリストのような絶対的な存在でもなければ、仏のように悟性を語るという存在でもない。人々が神を祀り、敬うことによって、神はより貴くなる。逆に人々が祀りを怠れば神は、堕落してしまうのだ。
 だから、人は「誠」、すなわちまっすぐな心、誰に恥じることのない清明な心をもって神を敬うことが必要とされる。
 したがって神は人間と相対的な関係にあり、絶対的な権威ではない。そのために日本ではどんなときも「誠」が求められ、ことに和の風土のなかでは、集団のなかでうまく調和を保つ上で、「誠」は非常に重要な要素となる。
 実に不思議なことに中国では、商売上の鉄則として「無奸不成商」といって、奸計や狡智がなければ商売にならないとされている。しかし日本の商家では昔から「誠実第一」という看板を掲げて、それをモットーにしていた。
 日本では誠実さが売り文句だが、中国では商店街に入ると、開口一番、店員から「旦那!
ウチで売ってるものはほとんどが本物。でも他の店はほとんどがニセ物だ」と押し売りする。他の店に行っても同じ売り文句が繰り返されるのだから、客は何を信じていいか分からなくなる。つまりきいかにニセ物が氾濫しているかということだ。
 いくら「打仮運動」(ニセ物追放運動)を断行しても、モグラたたきのように、ニセ物商売の横行がやまないのが中国である。
 日本人が「誠実」、「真心」を重んじるのは、神代の時代から連綿とつづく伝統である。武士道精神は「義・勇・仁・礼・誠」と「名誉」、「忠義」によって成り立っているが、幕末からは、とくに「誠」が前面に押し出され、志士たちの座右の銘となり、新撰組の旗印にもなっている。
 日本という島の民族は、大陸の民族と比べて、「心」、つまり内発性、自発性、自律性が重んじられる。神に対する誠を、いつも求められるからだ。
 しかし大陸の人間は、魯迅がいうように奴隷根性が強いので、外的な強制や強い刑罰がないと、徳をもつことができない。だから「仁義」や「忠孝」の倫理も、実際刑罰に対する畏怖からの「仁義」であり、「忠孝」である。
 それにひきかえ、日本人の伝統的な倫理観の主軸は、心情の純粋性、真実性、美しさにある。こうした心情重視の傾向が、日本人の「誠実第一」主義の底辺にあり、日本人の心、道徳の軸を形成している。
 
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