歴史から消された 日本人の美徳 |
黄文雄・著 青春出版社 2004年刊 |
“武士道精神”の真髄を知る 江戸儒学は、古儒学派の批判に遭いながらも、誠の精神を儒学から抽出した。なぜこの独特な思想が日本で生まれたかについては、中国と日本の相違点を見るとよく分かる。 私は40年以上にわたる日本での在住経験から、中国人と日本人の最大の相違点として、日本人が「誠」の民族であり、中国人は「詐(いつわり)」の民族であるという結論を得た。 日本人の徳性である真心、正直、誠実という優しい心は中国の「有徳者」にとっては、邪魔なものだということだ。三千年来、「四維八徳」、すなわち礼、義、廉、恥と忠孝、仁愛、信義、平和を掲げる徳目が存在したが、ついに誠という徳目は生まれなかった。 中国社会では「誠」は無駄・無用というべきか、さらには誠実さや正直さは身の破滅を招く危険な心情とされるのだ。生き抜くためには「詐」、つまり騙すこと、人を陥れることが何より必要な心術となる。誠であれと説くことは、中国では「死ね」といわれることと同じなのだ。現代中国においては「良心ある人は社会から疎外され孤立する」という諺が今も立派に生きている。 ではなぜ誠が、日本では徳目になり得たのだろうか。日本では近世に入ってからは、江戸儒学の隆盛に見られるように、儒学の影響はかなり大きかったものの、そこから柔軟な日本独自の儒学理解を推し進めた。仏教が神道と混じり合って神仏習合がなされ、日本独自の仏教を展開したごとく、外来思想を風土になじませながら変容させていくのが日本の特色なのである。 中国でも仏教などの外来思想が入っては来たが、儒教の徳目に変化をきたすほどの影響は見られない。宋の時代になって、朱熹は仏教の用語で孔孟の儒学を再注釈し、朱子学を創出したものの、これは決して儒仏習合ではなかった。朱子は極端な廃仏論者である。 武士の「献身」の精神はいうまでもなく「詐」を否定するものであり、誠を大切に生きようとする。だが、中国ではこのような武士道精神を発揮していては、生きていくことができない。 中国での戦いの原則は、孫子の兵法でいうところの「兵は詐道なり」である。 「詐」は知力がなくては成り立たない。敵に勝つためにキツネとタヌキの化かし合いを繰り広げ、奸智に長けるものが勝つことになる。それゆえに中国人は世界で最も政治を好む民族となった。歴史はすなわち政治であり、芸術、文化、そして道徳も政治である。したがって人間社会の最高位にある皇帝は、膨大な数の政敵との戦いに勝ち抜いた勝利者である。それゆえに最高の「有徳者」に他ならず、万民を統率するに足る人物として認められるのだ。司馬遷の『史記』をはじめとして、中国の歴史書はすべて皇帝を中心に書かれるのも、政治こそこの世の最高の力であり、それを表すものだからである。 柳田国男は、このような英雄豪傑を主役とする「歴史学」を批判し、無名の常民を対象に独自の「民俗学」を創出した。 日本の儒学に誠重視の思想が現れたのは、神道が養い育てた「清明心」が日本人の心底にあったからだ。和辻哲郎は『日本倫理史』のなかで、日本の古代人の道徳観を「清明心の道徳」とし、中世の武家社会を「献身の道徳」と定義している。和辻が指摘した清明心は、「清き明き直き誠の心」であり、神への祈りであり、誓いである。そこでは決して嘘や欺き、すなわち「詐」は許されない。さらに清らかな自然の山川に住む神に祈るからには、自身の身も心も清らかでなければならない。真心と真心が触れ合えば、自然に無私の精神が養われる。誠の精神は真実を求める精神を養うのである。 日本経済における急成長の奇跡は、70年代を境に一つの転機を迎えたと見られる。それは経済の急成長と反比例して、道徳的な荒廃が目立ってきたからである。 豊かになって、快適、快楽を求め、時間の余裕を享楽に振り向けた。テレビのゴールデンタイムはお笑い番組が独占し、国内外の情勢がどのように変化したとしても、人々はテレビの前で笑い転げていた。マジメ人間はからかいの対象となり、このとき以来、誠をもった人間の振る舞いが笑いの種になるという風潮が蔓延した。 「衣食足りて礼節を知る」とはいうものの、実はその逆の現象が起きているといえる。衣食足りて礼節を失ってしまったのが、高度経済成長後の日本の姿ではないだろうか。 こうした流れはローマ帝国の滅亡直前にも見られたことである。「パンとサーカス」がローマを滅ぼしたという説もある。歴代中華帝国においても、北方の素朴な騎馬民族が中華を征服した後、奢侈に溺れ、素朴さを失い、そして衰亡していくという歴史が繰り返された。その歴史の教訓は宮崎市定氏の『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』に克明に描かれている。 礼節を知るには、衣食足りることが不可欠であろうが、清貧の思想も場合によっては礼節を支える精神的基盤になる。 経済の急成長によって、国民生活のレベルが向上し、伝統的な「もったいない」という倹約の精神が大量消費社会のなかで薄れ、浪費、贅沢がそれに取って代わった。勤勉や真心、誠と いった美徳が重んじられなくなり、便利で快適な生活が求められ、ハングリー精神も希薄になった。伝統的な美徳が失われていくにつれて、人の心も弱く、脆(もろ)くなっていく。勇気というものが見られなくなれば、責任感も見当たらない社会になる。不正や犯罪ばかりが見えてくる世の中であって良いのだろうか。 |
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