歴史から消された
日本人の美徳 
 黄文雄・著 青春出版社 2004年刊

 自然への畏敬、衆生への慈愛が日本人の心の原点

 毛沢東が亡くなる直前に、中国で唐山大地震があった。この地震について当時は、詳細が公表されず封印されていた。改革開放後、やっと唐山関係者の回顧録が出て、当時の状況が若干だが明らかになった。もちろん、それでもすべての封印がとかれたわけではない。
 唐山大地震では、死者が数十万人と推定されている。しかし、地震による被害以上のある事態が起きていたのだ。近辺の農民が被害者の家々を家族連れで襲ったのだ。まだ息の絶えていない人々から、農民が家財道具から腕時計までも奪うという有様で、被害地には人民解放軍が出動していたのだが、解放軍がいくら銃撃をつづけても、農民たちは屍を踏み越えて襲ってきたという。実に恐ろしい、災害に乗じた暴民の蛮行があったのである。
 世界的にもよくあることかもしれないが、ことに中国人には、人の災難や弱みにつけ込んで、襲いかかるという、伝統的な民風がある。
 日本の阪神淡路大震災の際、中国文壇の最長老、柏楊氏はテレビで神戸市民の状況を見て、秩序ある救援活動と、略奪行為が起きなかったことに感動を覚えたと私に語った。「日本人はすごい、中国は日本に勝てない」と、日本人の優しい心と秩序ある遵法精神に舌を巻いた。その詳細については私との対談『新・醜い中国人』(光文社)にある。
 日本の常識は世界の非常識などといわれるが、こうした人への優しさに満ちた、成熟した日本社会こそ、世界に誇れる貴重な財産であろう。
 9・21台湾中部大地震の際は、李登輝総統(当時)が陣頭指揮を執り、日本の救援隊が一番乗りで台湾に駆けつけた。日本の救援隊が帰国するとき、桃園国際空港では、税関員が総立ちで表敬し、拍手が鳴りやまず、空港に居合わせた人たちのなかには、感涙にむせぶ人も見られたという。日本人が、かくまで台湾人に感動を与えたのは、戦後初めてのことであった。
 私も、この台湾中部大地震の際に、略奪がなかったことで、台湾人としての誇りを感じた。
 魯迅はかつて、「中国人は人を人と思わない」と嘆いた。他人への思いやりは、人を人として尊重するという、一つの愛であり、畏敬の念から生まれるものだ。人を人と思わない以上、当然のことながら思いやりは生まれない。
 日本人は、思いやりは教育、教化から育つものだと自認しており、今日の教育でもそれが重んじられている。その対象は人間だけでなく、自分のペットや、他人のペットにまで振り向けられているように、生きるものすべて、すなわち山川草木に対しても思いやりの心は強い。
 日本は仏教国家ではないが、聖徳太子が仏教を招来し、聖武天皇自らが「三宝の奴」と称して以来、日本人の心には、仏教の教えが色濃く反映されている。原始宗教である神道の考え方も仏教と習合しながら、これも日本人の心のなかに深く沁みわたっている。神道の自然への畏怖から生まれた山川草木への思いやりと、仏教の衆生という人のみならずあらゆる生霊への思いやりが相まっているゆえに、ことのほか思いやりの深い国民が生まれたといえる。
「地球に優しい」という考え方は、日本では古代より、生来の思想として存在していたのである。国民性の点からいえば、本能であったといってもよいほどだ。日本仏教独特の「山川草木悉皆成仏」の考え方も神道の教えを包み込んで編み出されたものであった。
 自然への畏敬、衆生への慈愛が、日本人の心の原点にあるのだ。
 原始神道は、自然との共生を願う心から発している。これは温暖湿潤の気候風土から生まれたものであろう。大陸のような寒暖の差が激しく乾燥した厳しい風土では、殺伐とした社会が営まれているが、それとは違い、日本は敵にもきわめて寛容な社会となった。
 元寇襲来のとき、当時の執権北条時宗は、弱冠18歳にして命を賭けて元軍に抵抗した。戦いが終わって、時宗は鎌倉に菩提寺を建て、千体の仏像を造って、敵味方の別なく戦死者の冥福を祈った。
 敵への慰霊は、朝鮮出兵や日露戦争のときにも見られる。日露戦争時におけるロシア兵の慰霊塔建立は、日本軍兵士の表忠塔建立よりも2年も前になされている。こうした行いは、日本列島に古くから連綿とつづいてきた、慈愛の精神のなせるものだと私は思う。
 中国大陸では古来、肝臓や胆のうをとって薬用にする(明代の薬学不朽の巨著、『本草綱目』李時珍、人の部に詳しい)。こうした実利主義を旨とする大陸民族は、倒れた敵の屍肉を曝して、干し肉や塩肉にして兵糧に供することを行っていたが、日本の対応にはこれとは正反対の心のあり方が見られる。敵の墓まであばき、屍を鞭(むちう)つ中国人との死生観とはいかにも対照的である。
 日露戦争は日清戦争に比べて、実に語るべき逸事が多い。旅順の二〇三高地の攻防では、日露双方におびただしい戦死者が出た。乃木希典将軍の二人の息子もここで戦死した。勝利を収めた乃木将軍は旅順郊外の水師営でロシア軍の総指揮官・ステッセル将軍と会見した。この会見については、小学唱歌として歌が作られたほどで、乃木将軍の人となりとステッセルとの交情は後々まで語り伝えられている。
 この会談の際、アメリカのジャーナリストが、その模様を映画で記録したいと申し入れた。ジャーナリストとしては、歴史的な場面を撮りたいと願うのは当然のことであった。しかし乃木将軍はこれを拒んだ。乃木将軍はその理由をこう述べている。
「武士道の精神からいって、ステッセル将軍の恥が後世に残るような写真は、撮らせるわけにはいかない」
 会談後、外国人記者たちから重ねて写真撮影の申し入れがあって、一枚だけ撮影が許可された。それも乃木将軍の「会見後、われわれが友人となった後の写真を一枚だけは許す」という配慮から実現したものだった。こうして、日本側の乃木将軍とロシア側のステッセル将軍、以下両軍の参謀たちが同列にならんだ写真が残ることになったのだ。
 ステッセル将軍は、その後日露戦争敗戦の責任を問われて、銃殺刑を宣告された。それを聞いた乃木将軍は、すぐにロシア皇帝に手紙を書き、ステッセル将軍がいかに祖国のために善戦したかを訴えた。ロシア皇帝はこの手紙に心を動かされ、ステッセル将軍は銃殺刑からシベリア流刑へと減刑された。それだけではない。乃木将軍は、ステッセル将軍の残された妻と家族に、私費で援助を送りつづけたのである。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]