「白人スタンダード」という
新たなる侵略
清水馨八郎・著 祥伝社 

 日本人が西洋の正体を見誤ってきた理由

 地球陸地のわずか3パーセントを占めるにすぎないヨーロッパの白人が、僅々200〜300年の間に、地球の5分の4の土地と民族を植民地化し、世界制覇ができたのはなぜか。白色人種とは、いったい、いかなる民族なのか。彼らはどこから来て、今後どこへ行こうとしているのか。彼らの異民族に対する残虐性、闘争性、殺戮性、嫉妬心、非人間性は、いつ、どこで彼らの遺伝子の中に組み込まれたのであろうか。
 われわれ日本人は、長い間の西洋コンプレックスから、西洋礼賛一辺倒で、世界史とは西洋中心に展開するものと錯覚させられてしまっていた。コロンブスのアメリカ大陸発見から始まる大航海時代を地理上の大発見とか、世界文明の夜明け、近世の幕明けなどと思いこまされてきた。
 実のところ、これは白人の海洋からの世界侵略の始まりにすぎず、まずアメリカ大陸の発見は「発見」でなく「到着」にすぎなかった。それは西洋文明による野蛮未開人に対する開明ではなく、白人の野蛮な世界制覇の開始にほかならなかった。
 ところが、明治以来今日に至るまで日本の歴史学者や文化人たちは、西洋を文明の先生と考えても。その背後に潜む醜い暗部、裏面史を見ようともしなかった。それはなぜか。私は。その原因を、戦前、戦後と2つの時期に分けて考えてみることにした。
 明治以来、日本の文明輸入は欧米一辺倒で、その他の地域や国は全く眼中になかった。日本人にとって外国人とは西洋人のこと。外国語とは欧米語のことだった。そこでは東洋人のことも、欧米語以外に沢山の外国語があることも忘れられていた。
 日本人にとって世界とは西洋のことで、そこには東洋もあり南米もアフリカもあることをしばし忘れていた。それは日本が長い間、欧米を通してのみ世界を見るように馴らされていたからである。幕末から明治維新、戦前・戦後を通して、日本の近代化のモデルは一貫して西欧だけであったからだ。文明とは西洋のことで、それは美化され尊敬され、あこがれの対象となっていた。
 ペリー来航以来、日本の先覚者は、黒船を造るような進んだ西洋文明を知るためには、渡航してその実態をこの目で見てくる必要があることを痛感した。その先駆者が吉田松陰であった。続いて幕末、幕府仕立ての咸臨丸を米国に送った(1860年)。これには若き勝海舟や福沢諭吉も乗り込んでいる。続いて明治政府による岩倉具視ら欧米視察団の派遣(1871年)も、すべて白人のみの文明の実情を学ぶことであった。
 さらに明治新政府が招いたお雇い外国人教師たちは、英、独、仏、米、蘭など、すべてヨーロッパ語圏の国からの人々であった。当時お雇い外国人の給料は、日本の大臣並みかそれ以上で、最盛期の明治8年には、こうした人たちが527名に達していた。政府はいかに早く西洋文明を直接吸収するかに努力していたかが分かる。現在東京大学の学問の基礎を築いたのは、すべてこれら英米からのお雇い外国人教師であった。
 彼らがいかに明治日本の科学技術の進歩に貢献したかは、どんなに感謝しても足りないほどである。しかし日本の西洋史、世界史における西洋中心主義の偏見だけは、以後の日本人の西洋を見る目を誤らせた点で、その責めを免れることができない。
 それは明治20年に帝国大学が招いたお雇い外国人教師ルードヴィッヒ・リースに遡ることができる。彼の講義が日本における近代歴史学の誕生だったのである。彼は近代歴
史学の父といわれたランケ(1795―1886年)の高弟だが、そのランケは世界史講義の中でアジアを蔑視し、アジア野蛮論を説き、西洋優位支配の正当性を述べている。西洋は善であり父であるという西洋から見た世界史の伝統が、帝大のリース教授を通して現代の教室にまで尾を引いているのは不幸というしかない。
 そんなわけで日本の歴史学者、文化人といわれる識者も、西洋のメガネでしか世界を見ない傾向が定着してしまった。戦前、政府は外国留学というと、英、独、仏語圏以外は認めなかったほどである。こんなわけで明治以来、日本人の西洋礼賛、西洋コンプレックス、西洋病は一貫し、これに疑問を抱き西洋文明の暗黒面を見ようなどという発想は、どこからも生まれなかったのである。
 
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