「白人スタンダード」という
新たなる侵略
清水馨八郎・著 祥伝社 

 侵略と虐殺をあと押しした、キリスト教の論理

 白人の世界侵略には、鉄砲による力の侵略とともに、十字架によるキリスト教宣教師の宣撫工作が表裏一体の関係にあった。宣教師は侵略の尖兵となって、先住民を精神的に手なずけていった。先住民の宗教は野蛮、未開だと捨てさせられ、キリスト教に改宗させられた。
 異民族の支配も殺戮も、神の名による聖なる行動と勝手に決めて、白人たちは平然としていた。日本にも16世紀にスペインからザビエルが来てキリスト教を伝えたが(1549年)、衣の下に鉄砲を隠している侵略の手先と見た秀吉は、その布教を禁じた。家光の時代になって鎖国して海外からの宗教的汚染を防ぐことができた。
 キリスト教は元来砂漠という酷しい環境に生まれた宗教だ。仏教や神道はモンスーン気候帯の森の中に生まれた宗教である。砂漠と森、乾燥と湿潤と、環境は正反対である。異なった環境で育った思想体系だ。全く異なるのは当然である。
 キリストやモーゼが生活したカナンの地は、人間居住空間としては地球上でも最も厳しい峻烈な環境である。人々はなぜ、こんな所に押し込まれたのかと、遠く沃野の民を思い、嫉妬し、怨念、復讐、対立、抗争の念を抱く。現地に立ってみると、ユダヤ、キリスト教が妬みの宗教になった背景がよく分かる。
 砂漠で道に迷ったら死である。己以外に生物の姿はなく、地平線と満天の星しか道しるべはない。この風土の中で人が天に唯一の神を認めるのは、心理的に必然である。砂漠の中では、世の終わりだの終末論が生まれるのも、十分うなずける。原罪論、堕落論、復活論、自然征服願望も、この環境と切り離して考えるわけにはいかない。環境、風土の全く異なる日本人には、原罪論も堕落論も全く理解できないのは当然だ。
 この一神教は、ローマやヨーロッパの権力者や王朝の人民支配に好都合なので国教となった。またこの教えは、一般住民の狩猟、牧畜、遊牧の牛馬酷使や奴隷使用の生活を正当化するのにもうまく合致していたので、たちまちヨーロッパ全体の宗教として広く普及していったのである。
 その説くところの愛や自由は、白人には適用されても、異民族や家畜や奴隷には及ばなかった。さらにこれを信じない異教徒は抹殺してもよいという独善性、非寛容性を持つ宗教となった。
 とくに中世、近世には十字架をかついで世界に出るや、あらゆる奸計を使って、神の名による蛮行を重ね、世界制覇を果たすことができた。当時のキリスト教はキリストの愛の教えとは全く反対に非白人に対してムゴイ仕打ちを強いて、まさに「切リ捨テ」教に堕してしまっていたのである。日本だけは、その罠にかからなかったから植民地支配を免れることができた。
 砂漠に対して森は生命に満ちた豊穣の大地である。森の中ではゴミが出ることがない。枯葉や生物の死体は他の植物や生物の肥料やエサになって甦る。森は永遠に流転を繰り返す輪廻転生の世界である。ここからは循環型世界観が生まれても、終末に向かって一直線に進行する終末論的世界観は生まれるはずがない。
 キリスト教では神が己に似せて人を創り、人の下に動物や植物その他の被造物を創ったことになっている。だから人は神の代弁者として動物を支配し、殺して食しても罪にならない。自然を人間の下位に置き、人間によって征服されるべきものといった独善的思想となる。異民族を捕えて奴隷にすれば、奴隷は牛馬と同じ位だから、どんなにムゴく扱おうが殺そうが、白人の勝手となる。
 この思想が近世500年、白人が南北アメリカ大陸のインディアン1億人を抹殺し、その失われた労働力を補うために、今度はアフリカから一億人の奴隷を集めて、奴隷船に詰め込み、新大陸に輸送して牛馬のようにこき使うことにつながった。これこそ白人が人類に行なった最大の犯罪である。その罪の償いをしない限り、白人には未来がないと知るべきである。奴隷制度という人道に反する残虐行為を生み出した白人文明こそ、21世紀の国際法廷で徹底的に糾弾すべきテーマである。これこそ白禍中の白禍であり、人類史の大汚点として残すべきである。
 さらにアングロサクソンのアメリカが人類に対して行なった三大犯罪とは、アメリカインディアン500万人の抹殺と、黒人奴隷を世界一多く長く酷使した罪と、広島・長崎への原爆投下の罪である。心あるアメリカ人はこの三悪の原罪に心を痛めはじめている。しかしまだ国家としてのアメリカは、そのいずれにも謝罪していない。
 
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