「白人スタンダード」という
新たなる侵略
清水馨八郎・著 祥伝社 

 「生文化」と「生文化」の違い

 中国人にとって歴史とは、天命を受けた皇帝の正統の歴史であって、そこでは、大多数の庶民の暮らしについては全く触れられていない。毎年のように深刻な飢饉があり、天災や匪賊に人民が苦しんでも、そんなことは記録されることが全くないので、歴史に載らないのだ。中国の歴史を一口に言うと、騙しと裏切りの4,000年の歴史ということができる。
 支那人が古代から言行不一致の騙しの民族であることは、一部漢字の構成からも看(み)て取ることができる。たとえば「信」と「偽」の対比である。中国では人の言うことは「信(まこと)」であっても、人の為すことは「偽(いつわ)」りであることを5,000年前の漢字がはっきりと教えてくれている。「白髪三千丈」とか「羊頭狗肉」などのウソは、日常茶飯事である。
 日本では考古学者の旧石器捏造事件が大問題になり、一個人が歴史を捏造するという常識で考えられない事件が発生して驚かされた。ところが中国だと歴史捏造はお手のものである。彼らは自分の都合で白を赤だと平気で言い張る。支那事変での南京事件30万虐殺など、全く存在しない事実を捏造して平気なのである。これが全くのウソ、デタラメの捏造であることは、田中正明、富士信夫、東中野修道先生ら各氏によって、学術的に証明されている。
 日本側が南京事件の事実を日中で共同研究しようと申し入れても、「その必要はない。これはすでに共産党の政策決定であるから、変更はありえない」と答える。彼らは日本からの賠償や謝罪を要求するための切り札が必要で、事実のいかんは問題ではないのだ。自分や自国に有利で。金になることなら平然とウソを声高に主張するのである。日本軍がやった悪事とされている「人体実験」や「万人坑」「従軍慰安婦」「強制連行」なども、大方は中韓が金にするための捏造にすぎない。逆に日本が「南京虐殺30万」の捏造の事実を世界に宣伝すれば、この一事を以て、中国がいかにデタラメな信義に悖(もと)る国かが世界に知れ渡るはずである。
 西洋白人が広大な世界をあっと言う間に征服支配できたのも、モーゼの十戒の一つ、騙す勿(なか)れの教えを破って奸計を縦横に発揮したからである。支那民族もそうだが、陸地を接する大陸の民は、他を騙すことによってのみ生き延びる悪知恵を養ってきたのである。彼らはいかに生き延びるかの「生文化」なのに、私たち海洋の中の島民族は、いかに生活を楽しむかの「生文化」であり、風土の違いがいかに文化を異にするかを痛感させられる。
 明治以後の日本の学者、文化人が文化文明は西洋や中国にあり、西洋礼讃、中国礼讃、西洋コンプレックス、支那コンプレックス、西洋病、中国病に陥ってしまったのは、騙しと偽善を背景とする大陸闘争文明の必然性を見損なっていたからである。
 西洋文明も支那文明も、日本の西方から入ってくるので、私は、これら輸入文明を礼讃する学者、文化人を「曲学阿西(きょくがくあせい)」の徒と呼ぶことにしている。これは終戦直後の流行語、「曲学阿」をもじったものである。吉田茂首相は、当時保身のためマッカーサーにこびる東大教授やマルクス主義に洗脳された学者たち、真理を歪め、世に阿(おもね)り、時勢に投じようとする学者どもをさして「曲学阿世」の徒と呼んだ。この阿世を阿西に入れ換えるだけで、戦後日本の学界や学者の反省を促す重要な術語になるのである。
 これからの日本は「白禍」や「中禍」をもたらした西洋文明、中国文明から脱し、これを超越して、日本文明の古代から続く一貫した価値を再発見して、日本回帰。日本ルネッサンスを目指すべきではなかろうか。
 
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