ヤオイズム
矢追純一著 三五館 

 対人恐怖症の虚弱児

 新京で私か生まれた四年後に上の妹が、その2年後に下の妹が生まれた。私たち家族5人は、日本人の居住区である新京の特別市で暮らしていた。家は父が自ら設計したもので、地上2階、地下1階の鉄筋コンクリートの大きな白亜の洋館で、当時としては珍しい全室冷暖房完備だった。地下にボイラー室があり、2人のボイラーマンが住み込みで24時間石炭をたいて、温度を調整していた。冬は高熱の蒸気で部屋を暖め、夏はその蒸気で熱を吸収する仕組み(吸収式冷却方式)だった。
 ボイラーマンの他にも、お手伝いさんが2人、父の専属の運転手が1人いた。みな中国人で、日本語がうまかった。新京では日本人の居住区に限らず、中国人はほとんどが日本語を話していた。
 私の記憶では、母親はほとんど家にいなかった。家のことはすべてお手伝いさんに任せて、自分は外で遊び回っていた。のちにタンゴの女王と呼ばれた藤沢蘭子さんなどの芸能人たちと仲がよく、たまに家にも連れてくることがあった。蘭子さんは当時、満州で活躍した歌手で、戦後の日本でもラジオからよく彼女の歌声が聞こえた。
 母はよく飛行機に乗って日本へ帰り、友達と銀座で豪遊し、ブランドものを買い占めて満州に戻ってくるような生活をしていた。性格もかなり大胆で、日本で遊ぶお金がなくなると父に電報を打ち、送金してもらってまた遊ぶという人だった。
 考えてもいただきたい。時代は戦前である。民間の飛行機会社などあるわけがない。だれもが船を利用していた。そんなときに、母がしょっちゅう日本と満州を飛行機で行き来していたのを私はハッキリと覚えている。おそらく父のコネで軍用機を使っていたのだと思う。本当にすごい人である。
 母については、驚かされることばかりだ。若く、きれいに見えるので、いつも年齢を何歳か偽っていた。自分では何もしなかったが、じつは器用でなんでもできた。料理の腕は一流。着物を一晩で縫ってしまうほど裁縫もうまかった。三味線もできたし、踊りもできた。才能があり余っているのだ。
 そんなユニークな母だが、子どもを育てることに関してはいたって厳しかった。私が好き嫌いを言うと、無理やり口をこじ開けて食べ物を押し込み、飲み込むまで許してくれなかった。私を甘やかすようなことはいっさいなかった。
 一方、父は頭の切れる人だったが、私を溺愛し、とことん甘やかした。30歳を過ぎてから初めて男の子に恵まれたので、大切にしすぎたのかもしれない。父は私を叱ることはいっさいなかったし、いつも私の健康を気にしていた。私が水を飲むときでさえ、その水の量をいちいち量った。私が水を飲みすぎて、おなかを壊さないよう注意したのだ。
 つまり、鬼と思えるほど厳しい母は留守が多く、極端に優しい父とお手伝いさんに囲まれて、私は何不自由なく育ったのである。おかげで、私はどうなったかというと、何から何までひ弱な人間になってしまった。ちょっとしたことですぐに体調を壊し、一年の半分近くは病院にいた。典型的な虚弱児である。
 しかも精神は体以上に弱く、すべてにおびえていた。恐ろしくて人に会うこともできない。だれかが家に来ると、すぐに隠れてしまう。家族以外にまともに接することができたのは、住み込みの優しいお手伝いさんたちだけであった。一種の対人恐怖症だったのだろう。
 当然、学校へも行けない。学校の教室で他の子どもたちに囲まれると、いじめられたわけでもないのに泣き出してしまう。間違いなく、先生も同級生たちも私には手を焼いたに違いない。
 だからといって、厳しい母が学校へ行かないことを許すわけはなかった。朝、父が私を気づかって、車で学校へ送っていこうとすると、母はそれを制して、「一人で行くんですよ」と私を家から追い出した。
 それで私はどうしていたかというと、学校へ行くふりをしていた。学校へ行くかのように家の玄関を出ていく。もちろん、母が後ろで私がちゃんと行くかどうかを見張っている。
 幸い、当時の家はデカく、玄関から門までがかなり遠かったので、私はトボトボと門まで歩いていくと、母に見つからないように物陰に隠れた。それからそっと家に戻って、押し入れに隠れていたのだ。母もすぐに出かけてしまうので、私は見つかることはなかった。優しいお手伝いさんたちはその秘密を内緒にしてくれた。
 したがって、私は小学校へ行った記憶がほとんどない。このあと触れることになるが、私の人生ではまともに学校へ通ったのは中学校ぐらいのものなのだ。でも、成績はつねに一位もしくは上位だった。高校にも大学にも入ったが、アルバイトや遊ぶことに忙しくて、ほとんど通っていない。
 だからといって、のちに困ったことは一度もない。むしろ学校へほとんど行っていなかったことは運が良かったのだと、今でも思っている。
 話を続けよう。幼少時、私は今でいう「引きこもり」だった。人から隠れて暮らしていた。小さな世界にずっと閉じこもっていたので、じつは当時の記憶もあいまいだ。ぼんやりとしていて、あまり覚えていない。
 私の記憶がしっかりとしてくるのは、このあとからだ。なぜなら、その日すべてが変わってしまったからだ。突然、夢から覚めたように、まわりの景色がくっきりと見えてきた。それは、1945年8月15日のことだった。
 
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