ヤオイズム
矢追純一著 三五館 

 「もうあなたたちの面倒を見ることはできません」

「今まではお坊ちゃん、お嬢ちゃんだったかもしれません。だけど、あなたたちは今日から一文無しで、食べるものもないし、住むところもないのよ。私も同じ一文無し。もうあなたたちの面倒を見ることはできません。いいですか、これからは自分の面倒は自分で見るのですよ!」
 なんと母は幼い私たちに向かって、すべてのプライドを捨てて自立することをいきなり宣言したのである。もちろん、その意味が私たちにわかるわけがなかった。ただボーッとして、母の言うことを聞いているだけだった。
 母はその日のうちに、私たち家族の住む部屋を借りてきた。そこは中国人が占領してしまった二階建てのアパートの一室だった。どこからそんな力が湧いてくるのかわからなかったが、母親の行動は素早く、しかもしたたかだった。
 その翌日だった。母親の、壮絶な決意の意味が私にやっとわかってきたのは。
「さあ、これを売ってきなさい!」
 母は私の目の前に着物を置いて、そう言った。母は贅沢をしていたので、高価な着物や毛皮のコートをたくさん持っていた。それらを家から追い出されたときに持ち出したのだ。
 かつて私たちが住んでいた家にはお金がいっぱいあったが、そんなものはもはやなんの役にも立たなかった。満州国がなくなってしまったので、満州国の紙幣はすべて紙くずになってしまったのだ。いざとなったら、価値のない紙幣ほど困るものはないだろう。食べることもできない。小さくて、鼻紙にもならない。すぐに燃えつきてしまうので、たき火の材料にもならないのだ。
 私たちがこれから生き抜いていくために、新たに手に入れなければならないのは、中国人たちのお金やアメリカドル、それにソ連兵の軍票だった。軍票とは、軍が発行するお金である。母は私に着物を売って、それらを稼いでこいと命令するのだった。
「売るって、どこで?」
「自分で考えなさい!」
 母はそう言うと、私に着物を持たせて有無を言わせずに外へ放り出した。
 街角には多くの人通りがあった。しかし、歩いているのは恐ろしそうな男たちばかりだった。体の大きなアメリカの海兵隊員やソ連兵、それに目をぎらつかせた中国人だ。
 彼らは下を向いて立ちつくす私をにらみつけながら歩いていく。母親はあんな男たちに着物を売れというのだろうか。どう考えてもできるわけがないではないか。
 だいいち、言葉がわからない。日本語で声をかけるわけにもいかない。日本人だとわかれば、何をされるかわからないからだ。実際、日本人が街でウロウロしていれば、すぐに襲われてしまうような状況だった。しかし、母は私がいくら泣いても部屋に入れてくれなかった。売ってお金を持ち帰らなければ、勘弁してくれないのだ。どんな抗弁も言い訳も、このときの母には無駄だった。
 無茶苦茶としかいいようがないが、もはや「やる」しかなかった。もう以前の怖がりで泣き虫の自分でいることは許されなかった。母は渾身のエネルギーを込めて「生きるか死ぬか」を私に迫っていたのだ。その迫力に気圧されて、私も決意せざるを得なかった。幼いながらに私は生まれて初めて自分で生きることを学んだのである。
 このときの母は単なる鬼ではない。鬼以上の迫力を持った鬼神だった。そして、私は変わらないわけにはいかなかった。見よう見まねで覚えた片言の中国語、ロシア語を使って、なんとかして母から渡されたものを売る努力を始めた。
 不思議なのは、やってみるとできたことだ。売れないと思っていたようなものでも、売ることができた。日本人にとっては珍しくないものでも、外国人には貴重なものがけっこうあるのだ。富士山や京都の舞妓さんが写っている使い古しの絵はがきでも、ソ連兵は「ハラショー!(素晴らしい)」と言って、喜んで買っていく。カラー写真を初めて見た彼らには、祖父が描いてくれた、もはやハガキとしては役に立たない絵ハガキでも、宝石のように輝いて見えたのだろう。
 そして気がつくと、私は違う世界に生きていた。昨日までの世界はどこへ行ってしまったのか。私の中から恐れが消えていた。
 戦後の満州から引き揚げてきた人たちの体験談を読むと、その悲惨さと慟哭に満ちた世界観に圧倒されるだろう。だが、私かこれから話すことはまったく違う。
 恐れが消えた私にとって、すべてはエキサイティングで、色彩にあふれたリアルな世界、興奮と感動と好奇心とがいっしょくたになった、とてつもなく面白い世界だったのだ。
 
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