ヤオイズム
矢追純一著 三五館 

 「あなたは本当に生きているのか?」

 私を非難する人たちに、逆にこう質問したい。「あなたは本当に生きているのか」と。
 もちろん、あなたは自分が生きていると思っているに違いない。しかし、私に言わせれば、あなたは漠然と「生きている」と思っているだけだ。本当に生きてはいない。なぜなら、現実を知らないからだ。先入観だけですべてを判断しているからである。
 今、私のことを残酷だと思った人たちは、実際に人間の頭が破裂をするのを見て、そう思ったのではないはずだ。それはいけないことだと教えられたので、私のことを間違っている、と判断したのだ。事実を知らないのに、そう判断したのである。そこに気がついてほしい。
 現実を見ていないのに、どうして生きているといえるだろうか。それは夢を見ているようなものだ。生きていると思っているだけだ。生きていると錯覚しているのだ。
「本当に生きている」のと、「生きていると思っている」のとではまったく違う。何か違うのか。感動が違うのだ。本当に生きていれば、生きているだけで素晴らしいのだ。うれしいのだ。楽しくてしょうがないのだ。
 では、「生きていると思っている」あなた、あるいは「生きていると錯覚している」あなたとは、いったいなんなのか。
 じつは、頭の中に知識が詰まっているだけだ。その知識が「生きている」と思わせているだけなのだ。知識があなた自身だと思い込ませているのだ。だから、感動がないのである。生きている実感がない。生きていれば、感動がある、実感がある。そこには経験に裏打ちされた事実があるからだ。
 家庭や学校で、親や教師からみなさんは多くの知識を得たかもしれない。たくさんの本を読んで、さらにたくさんの知識を蓄えたかもしれない。しかし、知識が増えれば増えるほど、あなたは本当に生きることを忘れてしまう。知識を増やすことが生きることだ、と思い込んでしまうからだ。何かをする前に、知識ですべてを判断してしまう。
 これほどつまらないことがあるだろうか。そこには驚きもなければ、ワクワク感もない。 経験と知識を混同してはいけない。生きるとは経験することであって、たんに知識を頭に詰め込むことではないのだ。知識は経験をして、初めて知恵となるのだ。
 わかりやすい例で説明しよう。水泳の教科書を一生懸命に読んで、その技術を知識としていくら頭に詰め込んでも、人は泳ぐことはできない。実際に水の中に入って、泳ぐ練習をして初めてできるようになるのだ。
 ところが、あなたはあたかもその知識を経験したように錯覚して、泳げると思い込んでいるみたいなものだ。頭の中の知識だけで、水泳を楽しんだと誤解しているのだ。
 本当に水の中に入って伸び伸びと泳ぐことの素晴らしさを、リアルな体験として味わったことがない。つまり、現実を知らない。本当は、ただ生きて、空気を吸っているだけでも感動的であることをあなたは知らない。頭の中の妄想の世界で暮らしているだけで、本当に生きてはいないからだ。
 幸い、10歳になったばかりの私の頭の中には、ほとんど知識がなかった。引きこもりで学校へ行っていなかったし、親からも知識を詰め込むように強制されたことはない。それまで押し入れの中にいたので、いっさいの知識とは無縁だった。
 つまり、知識という先入観がまったくなかったので、私にはすべてが新鮮で、生き生きとしていて、どんなことでも楽しむことができた。人の頭が吹き飛ぶ瞬間にさえ、私は生の喜びを感じたのだ。
 
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