ヤオイズム
矢追純一著 三五館 

 すべてを捨てて、日本へ

 1947年12月、私たち家族は中国の大連の港から、遠州丸という貨物船に乗って日本へ帰ることになった。終戦から2年後のことだ。遠州丸は最後の引き揚げ船で、これに乗ることができなかったら、私たちはそのまま中国に取り残されていただろう。
 中国北部の旧満州・新京から南下して、大連にたどり着き、無事に遠州丸に乗船できたのは、すべて母のおかげである。母はいつのまにかソ連の将校ともアメリカ軍の幹部たちともコネを作っていた。そうした情報網とあらゆるコネを使い、さらにたくさんの賄賂をばらまいて、母は私たちをなんとか引き揚げ船に乗せることができた。
 遠州丸は最後の引き揚げ船といわれるだけあって、中は3,000名以上の乗客ですし詰
め状態だった。もちろん、定員オーバーである。ここまで人が多くなると、持ち込む荷物が制限されるだけでなく、持って帰るお金の額まで1人1,000円までと決められていた。もしそれ以上を隠し持っているのがわかったら、その場で船から降ろされてしまうのだ。
「純一、これ余ったから好きなだけ遣っておいで」
 船に乗る前日、母は私に大きなミルク缶を渡した。フタを開けてみると、中にはお金がびっしりと詰まっていた。大胆な母は船の決まりを無視して、たくさんのお金や貴金属を持ち帰る荷物の中に隠していたが、それでもまだお金がいっぱい余っていたのだ。
 私は妹たちといっしょに大連で思い切り豪遊することにした。まず日ごろ行けないデパートの地下街へ行って、好きなものをたくさん食べようと思った。しかし、子どもが食べられる量など、たかが知れている。私はカツ丼とうどんを食べて、もうおなかがいっぱいになってしまった。妹たちが食べたものはもっと少なかったに違いない。
 もちろん、荷物を増やすことができないので、何も買うことができない。いくらお金があっても、結局いっしょだった。
 どんなにお金を持っていても人が食べられる量などタカが知れている。毎日10万円ずつ食事しても、胃が受け付けず、飽きてしまう。人間、必要なお金はそう多くない。余分に貯め込もうとするから、余計な労力と心配が増える。
 で、私たちはどうしたかというと、余ったお金を捨ててきたのだ。
 大きなミルク缶にたくさん詰まっていたお金を捨てたときは、正直うれしかった。重い荷物をもうこれ以上持たないですむと思ったからだ。
 そのときの私は12歳の少年にすぎなかったが、じつはもっと大きな荷物もお金といっしょに捨ててしまっていた。
 それは執着である。富に対する執着、ものに対する執着、人に対する執着、地位や名誉に対する執着、そうしたものが私の中からすべて消えていた。父親が作りあげた富も財産も、地位や名誉も一夜にして消えた。そういうものの儚(はかな)さを実体験したからだ。命に対する執着さえなくなっていた。毎日、人が死ぬのを当たり前のように見てきたからだろう。何かにこだわることが、私にはできなくなってしまったのだ。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]