ヤオイズム
矢追純一著 三五館 

 再び妄想について

 ホログラフィーという言葉をご存じだろう。最近では、ホログラフィーで作り出されたコンピュータグラフィックスの架空のアイドルが登場し、それが舞台で踊り歌うコンサートが、日本ばかりかヨーロッパやアメリカ、中国、香港でも開催され、話題になった。たとえ実在しないアイドルであっても多くのファンが熱狂できるのは、リアルに舞台で歌っているかのように見えるからだ。これはレーザー光線で作り出している立体映像(ホログラム)にすぎない。こうした立体映像を作り出す技術をホログラフィーという。
 ホログラムのフィルムには、光の波が干渉し(重なり)あったパターンが複雑な模様となって刻み込まれている。ここにレーザー光線を当てると、空間に立体映像が浮かび上がる。不思議なのは、このフィルムを端から切り取ると、立体映像が欠けてしまうかというと、そうではないことだ。フィルムを半分に切っても、そこにレーザー光線を当てると、やはり完璧な全体像が浮かび上がる。それどころか、フィルムをいくら切り刻んでも、ホログラフィーによるフィルムは全体を映し出す情報を内蔵しているのだ(ただし、小さく切るほど、そこに含まれる情報が少なくなるので画像が粗くなる)。
 じつは、このホログラフィーの性質を脳が持っているという。どうやら人間の脳はホログラフィーのフィルムのように、入ってくる情報を光の波のぶつかり合ったパターン(干渉縞)として脳全体で記録するらしいのだ。
 ここからは、さらに大胆なことも想定できる。この世の中のすべてのものや現象も、じつはホログラフィーの写真のようにできているのではないか、ということだ。
 たとえば、私たちが友人と出会うとき、その人の全体像をいちいち確認しているわけではない。そのときの角度、視界、距離などの条件により、見える部分も限られてしまう。本当は一度も同じ条件で、その人を見ていないのだ。それでも会えば、一瞬にして友人として確認できる。
 なぜ、それができるのか。脳がその人の立体像を把握しているからだと考えられる。つまり、架空の世界を脳の中で作っているのだ。これをもっと突き詰めて考えれば、宇宙を含めて、この世の中のすべてがホログラム(ホログラフィーの写真)かもしれないのだ。
 これはよく仏教の胎蔵界曼荼羅にたとえられる。胎蔵界曼荼羅とは大日如来を中心に形成された世界を描いた仏教画で、分割されたその世界の一つひとつが大日如来の世界を形成していて、さらに分割するとそれが同じ世界を形成するという無限の構造を表している。この構造こそ、ホログラフィーなのだ。
 しかし、よく考えていただきたい。ホログラフィーそのものは、その場に実在しないものを3D(立体映像)で見せる技術である。ホログラムの世界そのものは幻想である。だとしたら、ここで重要なのはその幻想を見ている「あなた」ということになる。あなたがいなかったら、それを見ることがないのだから、その幻想は存在しない。もともとないものなのだ。いくら立派な映画劇場があったとしても、あなたがいなければ映画はないのと同じである。
 人は誤解をしている。
「宇宙の中に地球があって、その地球にたくさんの国があり、その一つが日本で、その日本のある地域で自分は生まれた。自分はなんてちっぽけで、どうしようもない存在なのか」と。
 本当は逆なのだ。
「自分がいるから日本が認識できて、日本が存在することになり、世界が存在し、宇宙があるのだ。なんと自分はすごい存在なんだ」。
 重要なのはあなたなのだ。大切なのはあなただ。
 あなたがいなかったら、この宇宙の存在も認識できない。つまり、ないのと同じことだ。そう思えば、あなたが宇宙そのものなのだ。外の世界ではなく、それを内側で見ているあなたが重要なのだ。あなたの内側に本当は宇宙があるのである。
 なぜ、この事実に気がつくことができないのか。なぜ、自分を卑下したり、ちっぽけな存在としてみてしまうのか。第二章で説明したように、これまでにインプットされてきた常識のせいだ。すべてを常識的に判断してしまうために事実が見えない。
「大きなことはみんなで力を合わせてやらなくては無理だ」「みんなでいっしょに協力し合っていきましょう」とかいうおためごかしのセリフを楽しそうに言う人が多い。だが、裏を返せば、「あんた一人では何もできないよ」「あんたという個人はたいした能力がないよ」と言っているに等しい。
「常識」とは、言うまでもなく偏見のことである。それはたんなる偏った見方にすぎない。
 アインシュタインも言っている。
「常識とは、私たちが若いときに受けた教育による偏見にすぎない」
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]