ヤオイズム
矢追純一著 三五館 

 幸運への距離はたったの10センチ

 おそらく、ある日突然、それはやって来る。そのときあなたが目覚めていれば、新しい波に乗って、新しい世界へ進んでいくことができるだろう。
「なんて私はついているのだろうか」
 それは、まるでカジノの博打で大勝したような不思議な感覚かもしれない。人はそれを運が良いという。
 じつは、幸運と不運との差はたった10センチ。本当に、これくらいの差しかない。しかし、たったこれだけの差で運命は逆転してしまう。あなたはその差を超えられるだろうか。
 戦後の満州でのことだ。当時、私たち日本人は生き延びるためになんでもした。あるとき、ソ連軍の管理している旧日本軍の倉庫から、食糧や物資を仲間たちとともに取り戻しに行ったことがある。私はまだ少年だったが、大人たちといっしょに参加した。
 深夜、リヤカーを押して忍び込み、大きな倉庫からこっそりと食糧を運び出そうとしていた。すべてはうまくいったかのようだったが、突然、馬に乗ったソ連の憲兵が数人ピストルを乱射しながら乱入してきた。何事かロシア語で怒鳴っている。
「逃げろ!」
 私たちはドアを蹴破って必死で逃げた。
 すると、数名の仲間とともに走る私の頭上を何かが勢いよく通過していき、前を走っていた大人が倒れた。弾が当だったのだ。当時、私はまだ子どもで背が低かったので、私の頭の上を弾丸がかすめていき、前の大人に当たったのだ。その人と私の背丈の違いはわずか十数センチ。たったこれだけの差で、私は生き残り、その人は亡くなってしまった。
 私は倒れた人の体を乗り越えて、逃げ続けた。私が立ち止まったら、他の仲間もやられてしまうからだ。気がつくと、必死の逃走の中でも生き残った人間はしっかり荷物を満載したリヤカーを引いて走っていた。物資をしっかり持ち帰ったのだ。
 もしソ連の憲兵が撃った弾が十数センチ低く飛んできたとしたら、どうなっていただろうか。弾は間違いなく私に当たり、その人は助かっていただろう。
 もしすべてが妄想なら、私の現実もやはり私か作った妄想の一つだろう。しかし、人と違うのは、私はそのことに気がついているということだ。妄想を妄想と気がついている。だから、そこから自由なのだ。その場合、私は自分に都合の良い妄想しか見ない。いや、見えないのだ。これが、私がたびたび幸運を手にしてきた理由なのだ。
 まさかと思われるかもしれないが、本当だ。あなたが妄想から目覚めて、真実が見えるようになってきたら、このことが実感できるだろう。恐れさえ手放せば、結局恐れる事態は起きてこない。なぜなら、思いが現実を作っているからだ。
「うまいことを言うな。そんな矢追の珍説が通用するわけがない」
 あなたはそう言うかもしれない。どう考えようがあなたの勝手だ。しかし、私は自分の経験から得た事実を報告している。これは人の借りものではない。人から得た“知識”ではない。私にとって、事実は事実だからしかたがないのだ。
 これをどう受け止めるかは、あなたの問題だ。が、もし私の言ったことを覚えておいていただければ、たいへんな危機に見舞われたとき、あなたは生き延びることができるだろう。
 その証拠に、もう一つ私の体験を紹介しよう。
 
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