ヤオイズム
矢追純一著 三五館 

 執着を手放す

 じつは、妄想から目覚めて、ありのままのものをありのままに見るようになると、心から消えていくものがある。執着だ。お金に対する欲もなくなるし、名誉や名声も欲しくなくなる。プライドや見栄も消えてしまう。人に対する執着ももちろんない。気がつくと、私の場合、命に対する執着もなくなっていた。
 10歳から12歳までの満州での二年間にこうしたことが起きた。子どもだったので、執着もたかが知れているかもしれないが、それでも、そのあとの人生が大きく変わってしまった。生きていくことがとても楽しくなったのだ。つまらないと思うことがなくなってしまった。私のこれまでの人生で楽しさ以外のことを見つけるのは、不可能なほどだ。
 人を取り巻くすべての状況は、天気と同じでつねに変わる。たとえていえば、この世のものはすべて「雪」のようなものだ。降るときもあれば、やむときもある。そして、時間がたてば雪は溶けて消えてしまう。雪はあなたを困らせようと降っているわけではないし、喜ばせようと思って降っているわけでもない。勝手に降って、勝手にやむだけだ。
 そこにいちいち不安や恐怖を抱くのはあなたに妄想があるからだ。妄想が消えてしまえば、あるのはありのままの世界だけだ。そこには良いも悪いもない。
 その執着のない世界がどんなに楽な世界であるか、あなたに想像がつくだろうか。たとえば、目の前にいくらお金の山を積まれても、私はそんなものにいっさい魅力を感じることはない。
 お金がない場合も同じだ。実際、そんなものはなくてもなんとかなるからだ。私は日本に帰国してから、お金のために働いてきたが、それはお金を得るためというよりは楽しいからそうしたのだ。お金がなくて困ったことはない。必要なお金はなぜかちゃんと回ってくるのだ。
 大学受験の場合も同じだった。落ちると心配している人は落ち、私のようになんの根拠もなくても受かると思っている人は受かるのだ。
 妄想の世界は、あなたが好きな色をつけることができる。見たいように見ることができる。あなたの思い次第で、すべてが決まる。言うまでもなく、私が「思ったことはそのとおりになる」というのは、すべてが妄想だからである。同じ妄想なら、より楽しく素晴らしいほうがいいではないか。
ただし、その場合、楽しい妄想であっても目覚めていなければならない。我を忘れて妄想に囚われてしまうと、またもとに戻ってしまう。目覚めるとは、執着から自由になることなのだ。
 もうおわかりだろう。命に対する執着がないというのも、投げやりになったり、命を粗末にするという意味ではない。簡単にいえば、未来を思いわずらうことなく、今この瞬間に全力を尽くすということだ。
 宇宙はあなた次第ですべてが変わる。あなたが宇宙そのものなのだから。
 
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