精神病は病気ではない
精神科医が見放した患者が完治している驚異の記録
萩原玄明・著 ハート出版 
第4章 自分の「死」に気がついていない
1.彷徨する無自覚の意識

 死を自覚することの難しさ

 私は、死者に向かって供養の際によく話をして納得してもらっているのですが、まずほとんどの死者が私の話でようやく自分の肉体の終焉を理解して下さいます。そうだったのか、自分は魂だけになってしまったのかとやっと気が付き、そして気が付くと御佛(かみ)のルートに乗って本来の魂が在るべき場所へと、それこそ一気に帰って行きます。成佛です。
 ところが、ごくまれに私がどんなに話しても自分の死を頑固に肯定してくれない死者があります。こんな時はまさに根くらべといった感じで、何度も供養を繰り返して説得するしかありません。
 1人のお婆さんの死者で全く困り抜いてしまった経験については第2章「憑依の実際」の中でも記述しましたが、あのお婆さんは死んだことに気付かないままでいた代表サンプルのような事例でした。
 ああもしたかった、こうもしたかったという年寄りの想いそのままに、自分の子孫たちにさまざまな障(さわ)りの現象をもたらし続けたのです。子孫の皆さんが心優しくお婆さんの気持を汲んで上げて、お婆さんが気にしているであろうことを代わっていろいろ処理して行っても、それでもなおこの世にとどまっているのです。こういう時は何度でも霊視をして、お姿さんの意識の中にあるすべてを一つずつ順に吐き出してもらうしかありません。
 とうとう最後の最後に、自分でかくし続けていた不倫の恋をすべてさらけ出し、そしてお婆さんはようやく成佛して行きました。このお婆さんはそこまで自分の心を整理して浄化しない間は、いつまでも自分の死を正しく認識させてもらえなかったのです。
 確かに自分の死を自覚するのは難しいことのように見えますが、しかし、生きているうちにこのことを承知していれば、決してそんなに困難なことではないと私は常々皆さんにお話しています。
 肉体は一つの乗り物のようなもので、それに乗っている魂の方こそが本当は人間というものなのだと考えればよいと思います。
 そうすれば、肉体が終わった後は再び本来の形である魂だけの自分に戻るという大原則に従うだけで、死をただ恐れてあわてたり迷ったりすることもありません。しかも、このことをしっかり心に留めておけば、生きている時の生き方にさえ迷いは全く無くなります。
 肉体がしきりに求めるあらゆる欲望の空しさを知り、一方、魂の充足という満ち足りた悦びを知れば、人生をどう生きるべきかがよくわかります。
 これが御佛の心との一体化というものなのです。
 この世をどう生きるかもわからず、死んでも自分のその死に気が付かず、ただウロウロと苦しみさまよって子孫にとりすがるような、そんな人間には何としてもなりたくない――そうは思いませんか。
 
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