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第5章 間違いだらけの慣習 | ||
1.あなたは何を拝んでいますか | ||
死者を偲ぶ行為を略式化することの間違い 私は、彿典とか哲学書とかそうしたものからの引用をつなぎ合わせて、それで何か一つのことを述べるような方法を意識的に一切排除しております。学問らしい体裁をとることで難しくなってしまったら、宗教が人々から遊離してしまうと恐れるからです。 幸か不幸か私は学問とは無縁でしたので、体験第一主義と申しましょうか、ひどい目にあったり後悔したり、そのつど夢中で様々な体験をして、あとになってから御佛(かみ)のなさることの広大さに気付いてびっくりするという、そんなことばかりでした。ですから皆さんに何かお話しする場合でも、実証的立場でと申しましょうか、実際の体験をベースにするしか方法がありません。佛教学上の語句を多用しますと、言葉の意味が深いために解釈論義の方向につい流れますし、また、いつの間にかその立派な言葉にたよって、それを自分で初めて一言い出したような偉そうな気分になります。 そこで、あえて平易に書くように心がけているのですが、平易なるが故に、私の言っていることが佛教とは無縁であるかのように思ってしまった若い僧があって、びっくりしたこともあります。若いのにもう言葉の虜(とりこ)になってしまっているわけです。 しかし、佛教というのは大変難しいものだから、それを専門に勉強している僧侶が扱えばそれでいいのであって、一般大衆は佛事に関する一切を僧侶にゆだねていればよろしいという風潮が長い間続いています。そして、僧侶の言うことを金科玉条の如く盲目的に受け入れていることが善男善女の条件みたいになっていました。こんな習俗みたいなものが明治時代からなのか、もっと以前からなのか、それこそ無学な私が知る由もありませんが、しかし、本書のテーマとする問題では、昔、僧から庶民に伝えられ、盲目的に守られて来た多くの慣習が重大な障壁となっているのです。 いつ誰が教えたことなのか、実に無責任な教えが、まことしやかに蔓延しています。 その間違った教えを、むしろ便利なものとして来た長い歴史が憑依現象の原因を作り、そして現代の精神病を引きおこしているのですから絶対に捨てておけません。 間違いの多くは、死者を偲ぶ行為や行事の簡略化・形式化です。が、その風潮を作ったのは昔の宗教家や行政の長ではなく、一般の大衆自身だったのです。間違いを助長したのは人間の、楽をしたい、簡単にすませたいという怠惰で欲張りな心だったと思います。 死者のことで、楽に簡単に――は絶対ありません。白身で一心にしなければならないことが山ほどあります。それでもしなければなりませんし、しない限りいい結果をいただくことなど思いも及びません。 |
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