精神病は病気ではない
精神科医が見放した患者が完治している驚異の記録
萩原玄明・著 ハート出版 
第5章 間違いだらけの慣習
1.あなたは何を拝んでいますか

 私利私欲のために祈っていないか

 神や佛に手を合わせる時に、いつも私たちは胸中に何を考えているでしょうか。
 すべての事象をすべて神佛のご配慮に発するものとして、自分に都合がよかろうが悪かろうが素直に受容して、大きな存在である御佛(かみ)にただただ感謝申し上げるというのが一番いいと思うのですが、そうはいっても愚かな人間にはなかなかそうした気持に自分を美しく昇華させることはできません。
 まずほとんどは、自分可愛さのお願いごとばかりです。
 どうか何々して下さい、どうかお守り下さいというお願いの目的が、自分はどうなってもいいですから他人または人類全体の安寧をよろしくというのなら素晴らしいのですが、まず99パーセントの人々が、自分にとって物質的・肉体的に満たされることばかりを臆面もなく頼むばかりです。
「お賽銭もほどほどに上げましたし、こんなに熱心にお祈りしているのですから、そこそこのご利益をどうぞ私に与えて下さい」
 格別の反省も疑問もなく、親のしていたことを見よう見まねで覚えたままこのように合掌するのは、今や常識化してしまっています。
 が、精神病という並々ならぬ現象を教材として御佛(かみ)からいただいたのを契機に、今こそこうした間違っている慣習を厳しく考え直す時だと存じます。これは、核心に触れる重大なことなのです。
 草も木も、鳥も犬も、そして人間も、みんなこの世に生きる同じ生きものです。草木は大自然の営みに何一つ逆らうことなく、風雨や冷熱にさらされながら生きていますし、動物たちもまた、その日一日を食べて行ければ不平一つ言わず誰も憎まずに生きています。
 ところが人間は、同類の生物である他人よりも自分が少しでも恵まれるようにと、欲の心だけでひたすら御佛(かみ)に願いごとをするのです。ひとはどうでもいい、とにかく自分だけがよくさえあればそれでいい、どうかご利益を賜って自分を有頂天にさせて下さいと、その醜くて愚かな心を恥とも思わず、ただ、拝んだり祈ったりしています。たくさん拝めばそれだけ効き目があるかとあちこち回ってまで拝んでいます。
 戦争の際に、戦勝を祈願するのも実は妙な行為です。民族の存亡がかかっているからという大きな視野を掲げられると、つい誤魔化されてしまいますが、戦争で自国が勝てば相手国は負けるのです。自分や自分の親族の生命は助かるかもしれませんが、相手の国ではたくさんの生命が失われてしまうのです。自分たちさえ幸せなら相対的にひどい目に遭う人々があってもかまわないという、まことに嘆かわしい心が全世界を覆って行きます。
 政敵を祈り殺そうとする物語も、随分見たり聞いたりしましたが、こうした自分だけのための祈りというのは、どうも世界的規模で何百年も何千年も疑問ひとつ感じないで続けられて来たようですので、なかなかの難物です。
 大きな戦禍を被り、多くの家族の生命を失って、日本は初めて平和国家となりました。それなのにです、自分さえよければの心が依然として居座ったままではありませんか。内外へのボランティア活動にも消極的で、ちっぽけな自分中心の世界の物質的な充足のみを懲りもせず続けているのですから情け無い限りです。草木や鳥獣ではなく人間としてこの世に生まれて来ただけでもどれほど感謝しなければならないことでしょう。が、こんな基本的なことも苦しみの体験からやっと学べるのです。その苦しみがちょっとでもあるのが厭で、すぐに110番のように拝まれてしまう御佛(かみ)は「今助けてしまったらお前は何も学べないではないか」と困っておいでのはずです。
 他人はみんな幸せなのに、自分だけが苦しいめにあっていると思うから、誰かが助けてくれてもいいはずだと甘えるのです。本当に苦しんでいる人は、自分よりもっと苦しんでいるのが実は死者たちであることがわかって来ます。
 
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