精神病は病気ではない
精神科医が見放した患者が完治している驚異の記録
萩原玄明・著 ハート出版 
第6章 精神病は必ず治る
2.簡単ではない道のり

 想いの強い死者ほど早めに霊視に出る

 私は、現在1日に1軒のご家族の霊視しかしておりませんが、そのたった一晩の間に私の魂に死者たちの魂が感応して、生前の姿を見せて来られる方々は少なくとも4、5人はいらっしゃいます。
 私が死者のどなたかになって、道を歩いたり、或る家を訪ねたり、また、人に会つて話をしたりします。その「私」という人物がメインというか一番思いの強い中心人物のような気がしますが、生きていた時のような五感のほかに、ためらったり。恥ずかしいと思ったり、不愉快であったり、感情まで実に鮮やかに体感できます。
 その「私」が見たり話したりする相手の人物や近くで遊んでいる子供など、情景の中に登場して来た人物は、すべて私の霊視という唯一絶好の機会を待っていた有縁の死者だちなのです。
 そして不思議なことに、1回の霊視に出て来る複数の死者たちは1つの家系のライン上に関わる人であって、別のライン上の死者たちと混じり合って姿を見せるということはありません。つまり、祖母の実家側の人々ばかりが出て来た日には、祖父の生家側の人は1人も出ていないといったようにです。
 もっとわかり易くいえば、夫の方のご先祖が集中的に姿を見せた日は、1人も妻の方のご先祖は出て来ないということです。
 従って、お約束の霊視の日の翌日その内容を私からお話する時には、どうしてもご夫妻に揃っておいでいただかないと困ります。
 霊視の内容を聞くうちに、
「あ、それは私の祖父だと思います」
と、夫妻のどちらかが大抵声をおあげになるので、はじめてわかることになります。それまではどちら側の家系の死者が私の霊視を使ったのかは、私には皆目見当がつきません。
 あの世のことをまるで見て来たかのように実に克明に説明してみせる人がありますが、私には生前の或る時の姿をまるでその場にあるが如く見せて下さるだけですので、見えたそのままをお伝えするようにしています。尾ひれをつけて話せば面白いし、理解も早くなるかもしれませんが、しかし死者の訴える内容を間違って伝えてしまうおそれもあります。ただそのままというのが私の役目としては最も正しい姿勢と考えております。
 さて、霊視に姿を見せた複数の死者を1人ずつ日を別にして供養して行きますので、かりに4人の死者であったなら4回の供養となるわけです。
 最初の1人の死者の供養を終えた途端に、病状にドラマチックな変化が生じてびっくりすることもありますし、4、5人で完全に霊障が消滅してしまうということもあります。が、しかし、供養を開始した人たちを元気づけるかのように多少の軽減は見せてくれても、通常の精神障害の場合、4人や5人の供養ではほとんど解決してくれません。つまり、精神病の形の霊障を受ける家系では、過去の長い間、それほどに死者への追慕が欠如しているということができるのです。
 そこで更に再び霊視をします。
 すると今度は夫婦のもう一方の、前回は待たされることになった側の家系の方々が現れる確率が大きいということになりますが、そうしたこの世の理屈や見当とは必ずしも一致しませんで、またまた前回の家系の続きが霊視されるということもあります。
 あの世には厳然たる順番・秩序があるらしく、しかも想いの強い死者ほど早目に出て来ます。
 降霊術なるもので「誰某さん、どうぞ姿をお見せ下さい」とお願いすると、言われた通りにすぐその誰某さんが出て来て、霊媒にのりうつるというのがありますが、そんなものなのでしょうか、私には信じられません。第一、お願いして姿を見せていただいて、そしてそこで何をしようというのですか。人々を驚かせて得意になるため以外に何かあるのでしょうか。
 死者からの意識を受信するということは、手品が当たるかどうか試してみるのとは全く違い、恐ろしいばかりに厳粛な行事です。気軽に見世物のようにやっていいものか疑問に思えてなりません。
 霊視はこちら側から「お願い」して見せていただくものとは違います。
 あちら側から降霊して来て私たちに伝えようとする死者の意識が具現したものです。
 日常生活の中で瞬時も思い出さず、考えも偲びもせず勝手に切り捨ててしまっていた死者たち、実は自分たち家族にとってこの上なく大切な人々であった有縁の死者たち、そうした死者たちが思い出してもらうための「手掛かり」を強い意識のエネルギーで示して来るのが霊視です。しっかりと受け止めてあげなければいけません。
「わからない」「見当がつかない」と、調べることが面倒なばかりにあっさり言い切って甘えている人がありますが、この態度は死者に対し無情なばかりか、無礼というべきです。
 さて、こうして浮かばれていない死者たちは、供養によって皆無となるまで霊視をするたびに何人かずつ順々に出て来ます。何人おいでなのか、やってみなければわかりません。ほんの少々でしょうと言えば、ホッとして、たくさんおいでですと言えば尻込みするのが人間の心というものでしょうが、それに迎合して供養がさも簡単なように「なに2、3霊で終わるでしょう」などと言っては、間違った慣習を私か新しくまた作り出してしまうことになります。
 霊視に何人の死者が現れるのか、何人で終わるのか、これは全くわからないというのが本当です。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]